サタン側エバ国家日本

 日本の歴史的背景として最も問題なのが、原理講論には「サタン側エバ国家」とされる、日中戦争から第二次世界大戦までの期間である。そこで、原理講論(p541〜p542)の「天の側とサタンの側との区別は何によって決定されるのか」の一部を引用してみよう。「天(神)の側とサタンの側の区別は、神の復帰摂理の方向を基準として決定される。神の復帰摂理の方向と同じ方向をとるか、あるいは間接的でもこの方向に同調する立場をとるときこれを天の側といい、これと反対になる立場をサタンの側という。・・・この例を宗教面において挙げてみよう。すべての宗教はその目的が等しく善であるので、それはみな天の側にある。しかし、ある宗教が使命的にみて、一層天に近い宗教のいく道を妨害するときには、その宗教はサタンの側に属するようになる。また各宗教は各々時代的な使命をもっているので、ある宗教がその使命を過ぎた後までも、次の時代の新しい使命を担当して現れた宗教の障害となる立場に立つとき、その宗教はサタン側となるのである。たとえばイエスがあらわれる前には、ユダヤ教やその民族はみな天の側であった。しかし彼らが、ユダヤ教の目的を達成するために、新しい使命をもってこられたイエスを迫害するようになったときには、彼らがいくら過去において神を信奉してきたとしても、イエスを迫害したその日からサタン側とならざるを得なかったのである。・・・キリスト教はすべての宗教の目的を達成するために最終的な使命をもって中心宗教に立てられているので、復帰摂理の立場から見れば、この摂理の目的を指向するキリスト教の行く道を妨害するものは、何でもサタン側になるのである。したがってキリスト教を迫害するとか、またはその発展を直接、あるいは間接的に妨害する国家は、みなサタン側になる。」

 それでは第二次大戦における日本はどうだったのだろうか。大戦当時の日本の軍部は、韓国の各教会に神道の神棚を強制的に設置させ、キリスト教信徒たちを強制的に引っ張りだして日本の神社に参拝させ、これに応じない信徒たちを投獄、殺傷した。これが引っ掛かったのである。さらに原理講論(p536)にはサタン側の理由として、代々天照大神を崇拝してきた国だということと、全体主義の国であったということも挙げられている。
全体主義とは、近代国家の民主主義政治思想の根本である人間の個性に対する尊重と、言論、出版、集会、結社の自由、そして国家に対する基本的な人権および議会制度などを否定し民族国家の[全体]だけを究極の実在として見ることにより、個人や団体は民族国家全体の存立と発展のためにのみ存在しなければならないと主張する政治理念である。・・・全体主義の指導原理は、すべての権威を多数におくのではなく、ただ一人の支配者の意志をもって国家民族の理念とするのである。この指導理念による全体主義政治体制の事例を挙げれば、イタリアにおけるムッソリーニ、ドイツにおけるヒットラー、日本における軍閥による独裁体制が各々それに該当する。」(原理講論p546)とある。

 1937年から始まった日中戦争から、1945年第二次世界大戦終結までの期間において、日本のサタンとされる軍部の状況はどうだったのだろうか。もともと日本には資源がないにもかかわらず、中国大陸で戦争を拡大しすぎて、兵站つまり戦争を遂行するための人的、物的戦闘力の維持および増強をする能力が足らなくなったため、現地調達の命令がでた。そのため日本軍部は現地で、略奪、放火さらに強姦・輪姦を繰り返し、多くの民衆を殺戮したのである。これらの行為が残忍な古代的な戦争形態であることから、世界中から日本軍国主義と恐れられた。特に強姦・輪姦をして女性を皆殺ししていったことは国際的に大問題となったのであるが、日本兵の間にも性病が蔓延し、戦闘意欲がなくなることを恐れて、従軍慰安婦制度が設けられたほどである。また最も軍国主義の強硬派とされる関東軍の暴走によって、戦線はどんどん拡大され、大本営と最前線の統制が失われていき、最終的に米英とぶつかることになって、第二次大戦へと突入していったのである。

 なぜ日本は中国大陸でそのような横暴を繰り返し行えたのであろうか。第一の理由として、日清・日露戦争において日本が勝利したことにより傲慢になってしまったことと、過去においては強大な中国が列強国に屈服してしまったという現実によって、中国を見下すという心理に立ったということが考えられる。第二の理由は、前年の1936年に起こった2・26事件で、有能な政治家が次々殺されたことにより、強行派の軍人たちが主流となって、狂信的な天皇崇拝に陥っていったということがあげられるのではないだろうか。つまり、明治維新から始まった「王政復古」「神武創業」という復古主義の流れから、明治政府が日本古来の神社信仰を「国家神道」として国教化したために、日本は一気に古代の霊界に支配され、特に強行派の軍人たちを中心に古代さながらの戦争をしたのではないかということである。

 当時日本の敵国であったアメリカは日本を攻略するために、日本人の精神生活および文化について様々な観点から冷静に分析していた。その中に文化人類学の見地から書かれたルース・ベネディクト著「菊と刀」がある。「戦争中の日本人」の中で、日本人の態度に関する問題の中で最も有名なものは「天皇陛下に対する態度」であったと書かれている。その内容を要約して紹介しよう。封建時代700年を通して権力は将軍にあり、天皇は影の存在、単に名目だけの元首であって、天皇に対する忠誠は問題にならなかった。一般民衆に至っては存在しないも同然だった。ごく近年に国家神道の心臓として祀りあげられた天皇の神聖性を掘り崩したなら、日本は大黒柱を抜かれた家のごとく瓦解するとアメリカ人学者は主張したのである。しかし実際はそれほど単純なものでなかったことは、その後証明されることになる。

 アメリカは様々な情報を日本兵捕虜によって収集した。最後まで頑強に抗戦した日本兵の捕虜たちは、その極端な軍国主義の源を天皇においていた。彼らは「聖志を奉行」していたのであり、「天皇の命のままに身命を捨て」つつあったのである。「天皇が国民を戦争にお導きになったのである。そしてそれに従うことが私の義務であった」というのが連中の言い分であった。・・・また戦いに疲れた人たちは、「平和を愛好し給う陛下」といい、「陛下は終始自由主義者であって、戦争に反対しておられた」「陛下は東条にだまされたのだ」「満州事変中に陛下は軍部に反対の意向を示された」と陳述したのである。天皇はすべての人にとって、すべてのものであった。そして日本の捕虜たちははっきりと、皇室に捧げられる崇敬と軍国主義ならびに侵略的政策とは切り離し得るものであると断言したのである。「万が一敗戦となったら責任は内閣と軍の指導者が取るのであって、天皇には戦争責任がない、たとえ敗戦になっても十人が十人まで天皇を崇拝し続けるだろう」。

 日本軍の指揮者たちは、この日本人のほとんど全部が支持する天皇崇拝を利用する目的で、部下将兵に「恩賜」の煙草を別け与えたり、天長節の日に部下を指揮して東方に向かい三度頭をさげ、「万歳」を唱えさせたりした。また部隊が昼夜を問わず間断なく爆撃を受けていた時も、天皇が自ら親しく「軍人に賜りたる勅諭」の中で軍隊に授けた「神聖なお言葉」を朝夕部下全員とともに朗読した。軍国主義者たちはあらゆる方法で、天皇への忠誠心に訴え、これを利用した。彼らは部下将校に「陛下のみ旨に副うように」「陛下の御慈悲に対するお前たちの尊敬の念を示すように」「天皇のために死ぬように」と呼びかけた。そのように徹底的に教育された多くの捕虜は、次のような証言をした。「日本人は天皇の命令とあれば、たとえ竹槍一本しか武器がなくても躊躇せず戦うだろう。がそれと同じように、それが天皇の命令であれば、速やかに戦いを止めるだろう」「天皇のお言葉のみが、日本国民をして敗戦を承認せしめ、再建のために生きることを納得せしめることができる」と。

 以上のことなどを踏まえてサタン側ということを考えると、確かに軍部にサタンが働いていたように思える。と同時にそれは天皇の存在と一体不可分であることもわかるのである。天照大神を祖神とし神道の祭祀王としての天皇、あるいは軍部の統帥権天皇がもっていたことや、2・26事件以降、狂信的な天皇崇拝へと陥っていったことなど、天皇という存在を抜きには考えられないことである。しかし戦後開かれた極東国際軍事裁判東京裁判)において、天皇は裁かれることはなかった。主に東条内閣閣僚(軍閥)を中心に裁かれることとなったのである。天皇の戦争責任についてはともかく、アメリカとしては速やかに日本の軍隊の武装解除をして戦争を終わらせるためには、天皇の存在が欠かせないと考えたのは当然なことであった。もし天皇終結宣言をしなければ、日本軍は竹槍をもって死ぬまで戦ったからである。それほどまでに天皇の存在は日本人の心をつかんでいた。

 天皇自身は裁かれなかったが、近代の天皇制というものが日本をサタン側に導いていった遠因ということも否定できない。明治維新において倒幕のためのスローガンは「尊王攘夷」であり、そのために担ぎあげられた天皇を、明治政府は国家の中心に定めた。古代天皇制に復古しながら、欧米の文化や制度を導入して近代天皇制を創造し、さらにキリスト教に対抗すべく神道を国教化し「国家神道」を創出した。日本はキリシタン禁令の歴史的背景をもっており、明治になっても弾圧を繰り返していたために、国際的な非難を浴びるようになった。そこで明治の政治家たちは宗教の分野において独特の制度を設けたのである。国家統一をするために、国家の象徴である宗教(神社信仰)を国家の直轄機関にし、国家の統制を受けるというものであった。しかもアメリカ人が信教の自由を掲げながら、星条旗に敬礼するのと同じ理屈で、国家神道は国民的象徴に敬意を表することを本旨としているのであるから「宗教ではない」と位置づけたのである。そして国家神道の下に、他のすべての宗教は個人の信仰と自由にまかせた。

 「宗教ではない」のだから、西欧流の「信教の自由」に抵触することも西欧の非難を蒙ることもなく、日本はそれを学校で教えることができた。学校で教えたことは、神代以来の日本の歴史と「万世一系の統治者」たる天皇の崇拝である。そしてメディアでは皇室行事を大々的に報道・宣伝し、徐々に国民の支持を得ていくことになる。また前述したように軍隊でも軍隊教育として取り入れられ、それはだんだんと過激なものになっていった。一部の熱狂的な天皇主義の青年将校によって引き起こされた2・26事件は、このような政策が実を結んだ結果と考えられる。もはやこの狂信的な天皇崇拝は国家権力でも抑えがきかなくなり、天皇が直接に統帥権をもつ軍部を中心にサタン側国家は展開されたのである。

 原理的な観点からいけば、キリスト教に対抗した時点で国家神道はサタン側ということになる。さらに天照大神を代々崇拝してきたこともサタン側の要因であることから、古代信仰である神道に問題があるのではないかという結論に達する。つまり明治に入って、日本の国家体制が完全に古代に戻ってしまったことが、サタン側になった原因ではないかと考えるのである。そこで天照大神とはいかなる神であり神道とはいかなる宗教か、そして明治政府によって創作された国家神道とはいかなるものかについて詳しく考察することにしよう。