天照大神と伊勢神宮成立の経緯

記紀神話には「大化の改新」以前に、天皇家天照大神を祀ったというはっきりした記述は見えない。実際は大海人皇子(のちの天武天皇)が壬申の乱の時、天照大神に先勝祈願をして勝利をおさめ、これが契機となって天照大神は皇祖神への道を歩みだしたといわれている。天武天皇が戦陣において祀った天照大神というのは、もともとはアマテルミタマとか単にアマテルと呼ばれていた日の神で、日本のどこの村でも昔からそれぞれに信じられていた霊魂である。大空の自然現象そのものの魂、日・月・風・雷・雲であるから、日の神、月の神、風の神、雷の神とも雲の神とも考えられていた。

天つ神は大空を舟に乗って駆け下りてきて、めだった山の頂上に到着し、山頂を出発して、中腹をへて山麓におりくる。そこで人々が前もって用意しておいた樹木に(御䕃木(みあれぎ))に天つ神の霊魂がよりつくのである。その天つ神がよりついた樹木を川のそばまで引っ張っていき、川のほとりに御䕃木が到着すると、神は木からはなれて川の流れにもぐり姿をあらわす。これが神の誕生であり、この状態を御蔭または御生(みあれ)と呼んだ。そして神が河中に出現するその時に、巫女が川の中に身をくぐらせ、御生する神を流れの中からすくいあげ、自ら機織りし作った神衣を捧げ、その神の一夜妻となる。また神が巫女に婚うときには、蛇(竜)体となって訪れると信じられていた。伊勢神宮天照大神もその例外ではない。このように天照大神とは、もともとは蛇神であり男性神であるが、霊的な存在であり、その後神蛇の妻である巫女が祀る側が祀られる存在になったのである。

伊勢神宮天照大神を祭神とする皇大神宮(内宮)と、穀物神である豊受大神を祭神とする豊受大神宮(外宮)から成っている。皇大神宮(内宮)は、伊勢の宇治というところに鎮座しているが、宇治はもともと「川の神」を祀る祭場だったところであり、年に一回、川の神を迎える「滝祭り」をおこなっていた。皇大神宮を参拝する人は、宇治橋を渡ってしばらく神域を歩いて行き、右手に五十鈴川の流れを、そのまま手洗い場にとりいれた石畳に行って、手を洗ってから参拝するのが、昔からの習慣になっている。ここが昔の「川の神」の祭りの聖地だったのである。五十鈴川の川の神は、「滝祭りの神」と呼ばれて、昔はもちろんのこと、現在でも皇大神宮ではたいへん丁寧に祭りをしている。このように大事な神なのに、この神には社殿もなければ特別な施設のない、もともとは姿なき神社であった。ご神体は水底の竜宮にあるといわれ、滝祭りの神は竜、すなわち蛇の姿で現れる水神・川の神と信じられていたのである。このように川の中に生まれる蛇神が、皇大神宮の前身で「伊勢の大神」と呼ばれていた神であった。

 古代の神社は、特定の名をつけた神を祀る人々の政治団体であり、そのまま国であり実質的な独立国でした。「伊勢の大神」は遠い昔に天皇家によって攻め従えられた、朝廷の支配に服属した独立国であり、朝貢国でもあった。天皇家に征服されて服従をちかった地方豪族は、自分たちの守護神とともに、天皇に投降した。なぜなら昔は祭政一致であり、村の首長は神を体現する人だったからである。族長の娘は巫女で、神とともに天皇家に投降しなければならず、族長の娘は天皇家にさしだされて采女(うねめ)と呼ばれる女官になった。采女の本質は巫女であって、自分たちの国の神の魂を天皇に捧げ、天皇の身につけるのが仕事とみなされていたのである。また天皇は征服した国の神の魂を身につけることによって、その国に支配権を得ると考えられており、そのような手続きをとうして天皇は日本の大王になることができたのである。

7〜8世紀は天武・持統天皇の意志によって、天皇家の神権的絶対性を確立するために、「古事記」「日本書記」を編纂しようと、そのための材料が収集されていた時期である。実は日本神話の多くの部分の原型は、もともとは伊勢の土豪と民衆のものであったらしいことがわかっている。伊勢の地方神話が、大和朝廷への服従の誓いのしるしとして捧げられ、宮廷神話の中に持ち込まれていったものなのである。そのころ天皇家にアマテル(太陽神)の信仰があり、天武天皇が戦陣で決死の思いで太陽神に祈った過去性と、南伊勢の語部(かたりべ)が、宮廷で同じ性質の南伊勢の太陽神の信仰をさかんに物語っていたという現実とが結びあい、この伊勢大神天武天皇によって尊敬されることになった。

壬申の乱のころには、南伊勢では神国造として伝統的権威を度会(わたらい)氏がもっていたので、天武天皇は最初の斎王として大来皇女を、度会氏の居住地である宮川河口におくりこみ、主として宮川の川の神祭りをしていた。やがて、伊勢の土豪の勢力関係が破れ、度会氏のもとにいた宇治土公(うじのつちぎみ)氏が台頭するのに呼応して、都では度会氏につながる天語連(あまのかたりむらじ)をしのいで、宇治土公氏の女系の猿女(さるめ)君が台頭したのである。そのような勢力関係の推移から、伊勢の大神の斎場は宮川流域から五十鈴川流域に移り、天皇家皇大神宮は猿女君の故郷である宇治に定まった。そして壮大な神殿をたてることは、アマテラス神話が実際にあったことという既成事実として民衆に示すためであった。

 それでは豊受(とようけ)大神宮(外宮)はどのように成立したのだろうか。外宮が成立した目的は、天照大神に食事を供えることだった。御饌(みけつ)料理である稲を保存していた高倉を宮殿風に造り変え、ここに豊受大神を祀ったのである。穀物神・豊受大神は等由気大神(とよゆけおおかみ)とも、通説では豊宇賀能命(とようがのみこと)とも言われている。実はインドネシアなど南方では蛇のことをウガルといい、宇賀神も蛇神とされているのであるが、外宮には蛇信仰のキーワードがいくつか出てくる。高倉・穀物神・宇賀である。さらに外宮の床下には、古来「秘中の秘」として公開されることのない「心(しん)の御柱(みはしら)」と呼ばれる秘密の柱が立っている。この心の御柱は素木の丸柱で、五色の布で捲かれており、「心の御柱のみ下」こそ、伊勢神宮の最も神聖な場所とされている。前述した通り外宮の御饌殿(みけでん)は南方系出自の穀倉が神殿の原型であり、この心の御柱も後には様々な神が習合されてはいるが、古儀においては男根像そして蛇の造形である。そして外宮の神官は代々度会(わたらい)氏が務めているが、内宮・外宮の成立当時、南伊勢において最も有力な氏族が度会氏であったため、それを切り崩すために外宮を造って彼らに祀らせるというのが朝廷の施策であったらしい。つまり豊受大神と名乗ってはいるが、外宮で祀られているのは、地方神であり蛇神である伊勢大神そのものと推測されるのである。

ところで古い昔の天皇は、天皇と皇后のカップルを指していた。皇后は巫女で、天皇は皇后にのり移っている天つ神に託宣を乞うて質問をする人(審神者(さにわ))であったらしい。時にはそれだけにとどまらず、天皇自身が神に仮装するということをなし、ついに天皇は現人神と思われるようになった。天皇は神に仮装して神妻を訪れるが、その神はもともと蛇体と化して神妻を訪れていたと言われている。それで人間天皇が神に扮した状態は蛇の姿であるという信仰があり、天皇が歩まれた後には竜のうろこがおちているという俗信があり、竜顔という言葉が天皇に対して使われたたりしたのはこのためである。天武・持統ふたりの天皇には、最後の原始信仰(蛇信仰)的な天皇という一面があった。天武天皇が即位する前に出家して、持統皇后とともに吉野の山にこもったのだが、それは持統天皇を巫女として川上の神(蛇神)にふれ、神としての資格を得ようとする宗教行為でもあった。

しかし7世紀前後は、当時の先進文明国、中国から中国哲学(易学)や中国経由で仏教など、先進文化が伝来した時期である。古代日本の天皇は、国家主義者であればあるほど、中国の皇帝像に自らを近づけ、自身の姿をそこに重ね合わそうとした。天武天皇は当時、強力な皇権推進者であるとともに、中国哲学の体得者でもあった。天皇を神とする、しかも宇宙的規模における現人神としての天皇という認識を、自他ともに抱かせたのは天武・持統朝であった。「天皇」という名称を選んだのは天武天皇とされているが、これは中国哲学の「天皇大帝」からきている。天皇大帝とは天宮の中心「北極星(太一(たいいつ))」を表しており、太一とは北極星の神霊化である。さらに国土や現世を代表する天皇の昇格は、同時に神界である伊勢神宮の昇格がなされて完成するというように、伊勢神宮の祭祀は中国哲学道教の易学(陰陽五行説)に基づいて改革されている。天照大神は女性としては陰、太陽神としては陽ということになり、陰陽の宋主、つまり太極となる。それが太一であって、ここにおいて天照大神は太一と一体となり、「心の御柱」をその象徴とする存在になった。しかしすでに天皇は太陽の後裔を名のっていたので、表だって公表できない事情もあり、「心の御柱」と「北極星(太一)信仰」は秘中の秘とされ一般には公表されていない。

天照大神が女性とみなされる下地は、南伊勢の信仰の中で日の神を祀る女性(巫女)を重視していた事情や、中国哲学・陰陽五行説からもきているが、これだけで天皇家の祖神、太陽神を女性神とするのには無理があり、男性神にしておくのがより自然であるが、あえて天照大神を女性神と決めてしまったのは、天照大神持統天皇の治世に、持統女帝をモデルにしてつくられたということが決定打となったと言われている。

天照大神がくだした「天壌(てんじょう)無窮(むきゅう)の神勅(しんちょく)」にみられるような絶対的な王権は、天武・持統朝において胎動し、持統天皇の治世にもっとも強力に固められたものである。天皇の地位は、もはや大和朝廷の豪族の総意を反映して擁立されるという時代は過ぎ去り、天皇家の内部でも持統天皇の子孫によってのみ皇位は継承されるべきだという意思があった。それは次の天皇擁立の時に、毎回激しい争いが起こり多くの血が流されたために、世襲制にしようという動きがでたということである。そのため天皇の地位が「神授の神権」だから尊いということを、世間に認識させなければならなかった。つまり、女帝をモデルにした天皇家の始祖・天照大神を、絶対的至高の神として系譜の上に位置づける必要がうまれた。その天照大神の権威の名において、天皇の地位の永遠の保障と、皇位継承のしかたを指示する宣言を発表する必要が生じたのである。これが皇位継承の新しい伝統主義の宣言で名高い「天壌無窮の神勅」といわれる宣言である。

この宣言には、天照大神がその孫に与えた言葉が、天照大神の神権によって地上の王を決め、地上の王は天照大神の子孫に限ると決めている。そして天照大神の子孫の皇位は永遠だと保障しているという内容である。つまり持統天皇をスタートとした万世一系なのである。神話の中で天照大神は、子ではなく孫に降臨させている。天孫降臨とは天照大神が孫のニニギに、皇位を譲り与えたことの神話的な表現であるが、は持統天皇が自分の子孫に皇位継承をするということに固執し、息子の草壁皇子が病弱で即位をまたずに病死したために、皇位を孫の文武天皇に継承した史実を神話化したものと言われている。おばあさんが孫に皇位を譲るという異常な事態を、正当化するための天孫降臨神話だったのである。

さて皇大神宮は、持統天皇文武天皇皇位を譲った翌年に完成した。持統天皇皇位継承から5年後に亡くなり、文武天皇も病弱のために持統天皇死後5年後に亡くなっている。持統天皇があれほど固執していた子孫の血脈も、わずか4代をもって永遠に断絶したのである。しかし藤原仲麻呂によって、やはり百済系の桓武天皇が擁立され、天皇家藤原氏の二人三脚はそれ以降も続くことになる。また天照大神伊勢神宮天皇家の権威の象徴として、宗廟として、神界として存在し続けた。

8世紀の半ばには、中国経由で伝来した仏教により、古代仏教国家の体制が成立した。実はインド発祥の仏教も、インドのナーガ信仰(蛇信仰)と深いつながりがあり、ナーガが釈迦の守り神とされている。中国では「龍」と訳されて、龍とともに原始仏教はかなり早い段階で日本にはいってきていたようであるが、その後仏教が中国でさかんになり、日本に本格的に入ってきたのである。日本で仏教が花開いたのは、この龍という存在がなじみ易かったせいもあると思われる。古代から幕末に至るまで、平均的な日本人の多くは、仏は神よりも一段上の尊い存在と信じて疑わなかった。本地垂迹説により神仏習合がなされ、神と仏は切り離せない関係にあり、普遍的な価値をもつ仏に、限定的な価値しかもたない神は従属しているとする宗教観念を受け入れていたのである。

実をいうと持統天皇は、原始的な固有信仰である蛇神信仰を利用して、神権的な天皇制を教化しながら、しかも中国風の絶対的な古代専制王権にきりかえていった人でもあり、仏教も尊信していた。それゆえ記紀編纂・天照大神伊勢神宮の成立後は、原始蛇神信仰を古臭いものとして遠ざけており、また持統天皇の死後には、それにかかわった人々も切り捨てられていったのである。そのような中で文武2年以降の伊勢神宮は、一応律令国家のもの、そして天皇のものであるが、それはやはり表面のことであって、祭りの根底や経営の内実を検討してみると、内宮は宇治土公氏・荒木田氏のものであり、外宮は度会氏のものという存在であった。また伊勢神宮を構成しているその他の123社は、南伊勢・志摩の村々に存在はしているが、もともと村人の神であって、文武2年以降も、地域の村の共同体がまつる神としての本質を、少しも変えてはいないのである。実際に持統天皇も含めて明治に至るまで、伊勢神宮を参拝した天皇は一人もいない。建前としては、伊勢神宮天皇家の宗廟であり、神界(死後の世界)であるので、現世の王が足を踏み入れてはいけないという禁忌があったようであるが、実際には持統天皇の死後には、天皇家伊勢神宮の関わりは非常に希薄なものではなかったかと想像されるのである。

そのような中で鎌倉時代に「伊勢神道」なるものが現れた。これは伊勢神宮・外宮を基盤として形成された神道説で、「外宮神道」とも、また外宮の神職であった度会氏によって説かれたので、「度会神道」とも呼ばれている。豊受大神宮(外宮)を皇大神宮(内宮)と同等以上の存在であるとし、外宮の祭神、豊受大神天地開闢に先立って出現した天御中主神および国常立神と同一であり、天照大神をしのぐ普遍的神格だとする。また古典や古伝を駆使して、天照大神神道は日本開闢以来、根本的な日本固有のものであることを示そうとしている。度会氏の主張は結局、伊勢神宮の中で最も神聖な場所であるという外宮の床下に存在する「心の御柱」を根拠にしていると思われる。

伊勢神宮の祭祀の中で最も重要な祭祀として位置づけられているのは、「心の御柱への供饌」と「神衣奉献」であり、心の御柱の供饌は主に外宮で行われ、神衣奉献は内宮だけで行われている。中国人の考えによれば、耕は男子、織は女子に属した。耕と織は、要するに衣食であって、共に人間生活に必要不可欠である。それが祭りに持ち込まれていることは明らかである。供饌は新穀を心の御柱の下に供えることであり、神衣奉献とは、神の衣服を奉献する儀式である。これは、陰陽五行説的には、耕は男子で陽に属し、織は女子で陰に属するというところに意味があり、陰陽の両儀が相まってはじめた可能とされた。さらにこれは、原始信仰からすると外宮の「心の御柱」は男根像・蛇神を表しており、その男性神穀物を供えるという意味がある。内宮の天照大神は女性神であり、年に一度、神に衣服を捧げるために機織りをしていた巫女(神蛇の妻)をあらわしているので、神衣祭は内宮だけで行われる。そのような意味からすると外宮が主体となり、内宮に対して上位となる。また、「心の御柱」は陰陽五行における太極であり、宇宙神・太一の象徴とされたのだから、天照大神よりも上位ということになる。このようなことから、外宮上位という考えが生まれたのであろう。

ところで伊勢神宮の制度の中でも、特筆すべき制度として「大物忌(おおものいみ)」という神聖童女祭祀者という制度があげられるだろう。この制度は神宮制度が改正される明治4年まで、つまり近年まで存在した職制である。大物忌は12、3歳以下の童女である。この幼い聖童女の身分、およびその職責はきわめて特異であり、「皇大神宮儀式帳」(延暦23年、撰進された最古の神宮諸儀式の集録)には、「今の禰宜(ねぎ)の神主公成たちの先祖、天見通命の孫の川姫命を倭姫の御代わりとし、これを大物忌と名付けて、以来、この童女伊勢大神につけ奉り、奉仕させてきた。今もこの大物忌、斎内親王(いつきのひめみこ)より大神に近く仕えまつり、昼夜となくお仕えして、その責務は最も重いのである。これが大物忌の縁由であるが、この父も同様に、忌み慎んで大神にお仕えしている。」とある。斎内親王とは、天皇家から送られた皇女であり、御代の交替ごとに新たに卜定(ぼくじょう)され、3年におよぶ潔斎をへて伊勢に赴かれる至高の祭祀者である。その斎内親王を超えて大神に最も近く、昼夜を分かたず付き奉って、その任が最も重いといわれたのが「大物忌」なのだ。その仕事は重要行事における正殿の開扉、重要な神祭に先立って行われる清掃においても、「心の御柱のみ下」の辺りは、大物忌の奉仕によった。この「心の御柱のみ下」が伊勢神宮の中でも最も神聖な場所で、旧9月の神嘗祭の「湯貴(ゆき)の大御饌(おおみけ)」もこの御柱の下に供されるが、この献饌もまた大物忌の役であった。大物忌はひとたび選任されるともっぱら斎戒につとめ、宮廷外に出ることは禁ぜられ、出た場合には即刻退くことになるという厳しさであった。こうして大物忌は成女となるまで在任し、父の喪にあわないかぎり大神に奉仕したのである。伊勢神宮にとって、斎内親王はやはり外部からきたお客さん的な存在であったらしく、本当の神妻的な巫女は度会氏・宇治土公氏・荒木田氏から選ばれていた。しかもそれは5歳から13歳までという少女が担当していたのである。

なぜ少女が担当したのであろうか。伊勢大神とは表面は女神の天照大神であるが、その背後に潜むものは、?日本古代信仰によるときは、蛇体の大祖先神 ?中国哲学導入後は、宇宙神・太一が習合されている。そのどちらも大・陽であり、その相手として小・陰が組み合わされる。それで末娘である少女が選ばれるというのは、陰陽五行説からくる組み合わせなのであるが、聖書的な観点でいえば、エバと蛇(天使長ルーシェル)との堕落、アダムとエバの堕落がちょうど10歳から13歳前後という少女期であるということから、非常に意味深い内容となっている。

伊勢神宮の神は古代神、蛇神である伊勢の大神を土台として、天照大神という宮廷神が習合され皇祖神となった。さらに中国の「天皇大帝」という北極星・太一神が習合されてもいる。しかし土着の首長であり「伊勢の大神」の神官であった氏族が、そのまま伊勢神宮の神官を引き継いでいるために、どんなに様々な信仰が習合されても、古代原始宗教(蛇信仰)が本流にあるということは十分に考えられる。さらに皇室神道の祭祀は、古代仏教国家の体制下にあっても、天皇の権威が解体する危険を避けるために、厳しく仏教化を拒み、古代中国における儀礼、行事に積極的に道教を導入して仏教化に対抗した。そしてそれは幕末まで受け継がれたのである。また外宮、度会氏による伊勢神道には「神道五部書」と呼ばれる教典的な書があり、現在は偽書とされているが、中世には吉田神道、幕末には儒家神道に多大な影響を与え、「国家神道」樹立につながっていった。