国家神道成立の経緯

国家神道に至るまでの歴史的背景

諸国の神社は、室町中期以来の争乱で神事もすたれ荒廃したが、室町幕府と結ぶ吉田神道の台頭によって、神道復興の気運が高まった。この吉田神道に大きな影響を与えたのが、伊勢神道(外宮神道)である。また16世紀の半ばに伝来したキリシタンカトリック)は、南蛮貿易の進展とともに、近世的統一者の保護と禁圧のはざまで、着々と全国的に進出しつつあった。新旧の仏教勢力を完全に制圧し終えた豊臣秀吉は、寺社領の検地をおこない、没収と再寄進によってその封土化をすすめた。豊臣秀吉吉田神道の強い影響をうけている。

徳川家康による江戸幕府は、織豊政権の宗教政策を基本的に受け継ぎ、仏教と神道の二重国教制によって、全宗教の統制支配をさらに強化した。この宗教政策の総仕上げが、キリシタン禁止を理由とする宗門改め、寺請け制の新設である。キリシタン信者でないことを定期的に検証する宗門改め制は、人民を監視するこのうえない武器であり、寺院が壇徒の身柄を保障する寺請け制は、寺院に封建支配の末端としての人民管理の役割を課した。民衆は、例外なく特定の寺院の壇徒になることを強制され、旅行にも嫁入りにも檀那寺の証文が必要となり、葬式も檀那寺の仏葬以外は原則として許されなかった。

幕藩体制のもとで、仏教は国教としての公的位置を保障され、寺壇関係の制度化によって、経営の安定を得ることができたのである。しかしその反面、仏教各派は、室町末期まで展開してきた自主的で活気にみちた布教活動を抑圧され、政治権力の支配下でその権威づけに奉仕する存在となった。その結果、時が経つにつれ宗内は沈滞し、破壊僧の続出などの退廃がとめどなく進行した。このようなことから反仏教感情が民衆にひろがり、排仏の広大な基盤が形成されたのである。神道は仏教に準ずる国教として公的位置を与えられ、排仏・神道優遇の政策をとった水戸、岡山の一部の藩では、仏教側との対立が先鋭化した。幕府が官学として朱子学を採用したことから、神儒一致を説く神道説があいついで唱えられ、儒者神道家・経世家たちは仏教批判の論陣をはり、時流に迎えられたのである。民衆の反仏教感情は、仏教の枠にとらわれない現世利益神・救済神への関心をかきたてた。日本の神々について易しい説教をする神道講釈が聴衆を集め、日本が神国であるゆえんが強調された。そうして幕末の神道の興隆へとつながっていったのである。

民衆の間では、神仏への畏敬の感情が脈々と生き続け、地域集団の神社信仰と家の宗教である仏教信仰を基本としていたが、幕府が設定した宗教統制の枠を踏み越えて、生活に根ざした新しい救済の宗教を生み出し育てていったのである。仏・菩薩・神々に病気なおし、開運など身近な御利益を求める現世御利益信仰が流行し、「はやり神」が次々に登場して人々の信仰を集めた。民衆の生活の場に僧侶や神職の宗教者は存在せず、山伏・巫女・ひじり・行者・陰陽師・呪い師などの雑多な宗教者が活発に動き、民衆の信仰を導いた。また19世紀にはいると、信仰心のあつい農民などが神がかりして教祖となり、新しい救済の宗教を広めるようになり、天理教金光教などの習合神道系創唱宗教が登場した。また法華信仰の在家信者の運動も、各地でさかんになった。
 
 江戸幕府の封建支配は天保の改革を経て、急速に解体の方向へ向かった。行き詰まった政治権力者は、民衆からの収奪を強化することで、危機を打開しようとしたが、窮迫した農民の大規模な一揆や、都市住民の打ちこわしが続発し、世直し待望の空気が広がったのである。また江戸時代にほぼ60年ごとに流行した伊勢への集団参宮の「おかげまいり」は、幕末に近づくにつれ、偉大な神の力によって世直しされるという願望と結びつき、全国的な広がりをもつ大きな騒動に発展した。特に文政・天保のおかげまいりでは、500万余といわれる民衆が全国各地から参宮におしよせ、天から伊勢皇大神宮をはじめ様々な神仏の札が降り、村々でおかげ踊りが始まった。群衆は各地で役人や真宗の僧侶と衝突し、沿道の地主や富商の家に勝手に上がりこみ乱暴を働いたりした。おかげまいりが示す伊勢信仰の高揚は、日本の祖神とされる伊勢皇大神を代表とする神道の神々への興隆に連なっていた。

幕府は度重なる外圧に屈して開国に転じたが、西洋文明の流入と貿易が引き金となって物資が高騰し、攘夷の空気が急激につくられていった。そのため尊王と攘夷の主張が結合することによって、倒幕王政復古をめざす流血の政治闘争がくりひろげられることになったのである。倒幕の政治運動は、日本の神々に根ざす宗教的権威をもった天皇の存在を絶対化する平田派国学と後期水戸学によって、思想的に導かれた。平田篤胤の説いた復古神道は、惟神(かんながら)の道への復古を説き、仏教・儒教習合神道をはげしく排撃した。そしてキリスト教に学び、霊界を重んじ死後の審判を説いて、完結した救済の宗教としての神道を志向していた。
 江戸幕府倒壊の前夜、1867年夏に「ええじゃないか」騒動が巻き起こった。全国各地で、空から伊勢皇大神宮をはじめ有名寺社の札が降り、民衆は世直しの時が来たと狂喜し、「ええじゃないか」の繰り返しで終わる卑俗でなげやりな歌を歌いながら、仕事も何も放棄して踊り狂い、地主や富商の家に上がりこみ酒食を要求した。この騒動が過ぎ去った後、江戸幕府は倒れ、天皇の古代的宗教的権威を擁する新政府が登場していた。また民衆の現世利益神、救済神であった伊勢の神も、天皇の祖神で国家の最高神天照大神に変貌していたのである。



 東京奠都を経て、版籍奉還が行われ、官制の大改革が実施された。大宝律令の古制にもとづいて、神祇官太政官の二官をおき、神祇官を最高位とした。国教の布教が、再興された神祇官の新しい重要職務とされたのである。そして「大教を宣布する詔」がでて、神祇官による「大教」の布教活動が実行に移される段階を迎えた。明治維新の当初には、神道といえば一般的に習合神道をさしていたため、意識的に神道という用語を避けて、大教・神教の語がもちいられたが、神道の国教化は「大教」の名で新たに体系づけられた天皇崇拝中心の神道教義を、組織的に布教し全国民の宗教を統一することを目的としていた。宗教国家の体制はこうして急速に形を整え、政府は国民に新たな国教を布教するために宣教使を設け、神祇官の管下に入れたのである。

 神祇官の再興による神道国教化は、1871年には頂点を迎え、社寺領の上知命令、神社の社格制定、氏子調べ制度の新設など、国教樹立のための重要措置があいついで実施された。さらに神社はすべて国家の宗祀であるとの太政官達が出され、全神社の公的性格が確定したのである。全神社の本宗とされた伊勢神宮に対しては、神祇官直接の指揮下で改正が行われた。内外宮の別を明確にし、内宮を上位におき、祠官の職掌を改め、伝統的に御師がもっていた大麻(神札)や神宮暦の製作配布権をとりあげるなど、伊勢神宮はこの改革で、大教の本宗にふさわしくつくり変えられた。

神仏分離令
 神道国教化のためには、神仏の分離が緊急な課題であった。1868年、太政官神仏分離を布告したのを機に、排仏毀釈の実力行使が全国各地にひろがり、明治初年の拝仏毀釈運動は、幕末に薩摩、津和野藩で実施された排仏政策を原型としていた。幕末の政争で、長州藩と連合して倒幕王政復古を主導した薩摩藩では、水戸藩にならって排仏に着手していたのである。薩摩藩では幕末に国学がさかんになって排仏の気運が高まり、藩主島津斉彬は、日本は皇道の国であり仏法は不要であると宣言した。全寺院を廃止し、2964人におよぶ僧侶を還俗させ兵士にし、金属の梵鐘(ぼんしょう)仏具類を武器に改鋳することを目的としていた。排仏政策は徹底され、1968年以降数年間は、一人の僧侶も一寺も存在しなくなったのである。

 薩摩藩と連合して王政復古を主導した長州藩では事情はまったく違っていた。長州藩真宗西本願寺)の強固な地盤であり、維新直後には、長州出身の僧侶が西本願寺の主導権を握って、新政府を支持し、財政的にも大きく貢献した。神祇官へ進出した津和野系国学者は、神仏分離による排仏の強行に熱心であり、薩摩系の高官は、この直線的な神道国教化政策を支持したのである。しかし長州藩系の有力者たちは、排仏に消極的で、仏教が新しい護国の宗教として再確立することを期待し様々に運動したが、結局実をむすぶことはできなかった。

 そもそも神仏習合は、8世紀の大和・奈良時代にはじまり、千年以上にわたって日本人の宗教意識に根をおろしてきた。神社神道は、日本原始宗教(蛇信仰)の構造を今も伝える農耕儀礼中心の地域信仰である。儀礼中心で教義を欠き、その神は地域限定であって、創唱宗教がもつ普遍性や超越性をもたない。日本の古代国家成立期である6〜7世紀頃、朝鮮・中国・北アジアから高度に発達した大陸の宗教である仏教・道教儒教が伝えられ、日本の宗教はめざましく展開をはじめたのである。神仏習合の進行は、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説によって教義的基礎をもつにいたった。本地垂迹説によれば、日本の神々は仏、菩薩の権の現れ(権現)であり、仏法を守護する護法の善神とされた。仏が本体であり、神は投影なので、当然仏は神よりも尊い存在というものである。

 本地垂迹説は、仏教を主体とする神道説の発達を促した。代表的な二代流派は、天台系の山王一実神道真言系の両部神道である。実はインドでは7世紀に仏教が衰退したことで、ヒンドゥー教の一派・タントラ教から秘密の教義体系を受け入れ、真言密教が成立した。真言(呪文)を唱えて、災いを除き福を招くことを説いている。真言宗天台宗はこの密教系の宗教で、加持祈祷の体系が整っていた。日本人の信仰観は基本的に現世利益信仰なので、違和感なく受け入れたのであろう。また法華系では、法華三十番神説と呼ばれる法華神道が唱えられた。

 仏主神従の天台・真言神道説に対抗して、鎌倉中期から伊勢外宮の神職、度会氏によって伊勢神道が大成された。日本最初の神道を主体とした神道説であり、仏教・道教儒教を取り入れた習合神道であった。またそれに影響されて、室町末期に吉田神道が現れた。吉田神道は、江戸時代をつうじて全国の大半の神社を影響下においたのである。

 こういう神仏習合の流れに対して異なる立場も存在し、幕末まで受け継がれた。その一つは、神道側の仏教拒否の伝統である。皇祖神を祀る伊勢神宮と日本最古の創建とされる出雲大社は、仏教化を拒みつづけた。また、江戸時代に朱子学が官学に採用されたことで、神道儒教を一体とする神儒習合の神道説があいついで唱えられ、排仏運動を活発にした。幕末には平田篤胤の提唱する復古神道も現れた。一方、仏教側にも神道を拒否する有力な流れが存在した。ひとつは、親鸞の系統である。本願寺門徒真宗)は、仏法は法(真理)であり人間は法によってのみ救われるとし、神祇は霊であり霊の力にすがって現世利益を求める心、霊の祟りを怖れる心を超えることが法による救いであると、神祇不拝を基本教義の一つとしている。また法華系では、「神天上の法門」と呼んで神祇不拝を説いた。これらの異なる流れはあっても、全体として日本人の宗教意識は明治維新にいたるまで、神仏習合を当然のように受け入れていたのである。

全国をおおった排仏毀釈運動の数年間で、仏教の国教としての権威は失墜した。政府がとった仏教への打撃政策には、幕末に神道化を実行した薩摩藩と津和野藩の経験が、直接反映していたが、穏便な津和野方式よりも徹底的な薩摩方式の影響が大きかった。この薩摩方式を全国各地で実行に移せば、収拾のつかない混乱がおこり、時には抵抗が激化するのは当然のことであった。しかし政府は、激化する各地の排仏毀釈運動をあえて抑止せず、成り行きに任せる態度をとりつづけた。これは仏教に手痛い打撃を与えて、日本最大勢力である仏教を近代天皇制国家に奉仕する護国の仏教につくり変え、政府による宗教支配を貫徹するねらいがあったからである。

キリスト教の解禁
幕末において、欧米列強のアジア植民地化の脅威、開国後に外国貿易の発展がもたらした物価の高騰など、外圧に対する危機感は異常なまでに深刻なものがあった。外圧に直面しつつも、欧米列強と連携し、それを利用して政局の主導権を握ろうとする擁幕、倒幕のいずれの勢力にとっても、欧米諸国の強大な国力と先進的な文明はおそるべき脅威であった。しかも、その精神的背景には、国禁のキリスト教があり、開国にともなうキリスト教の進出を完全に食い止めることは不可能な状況にあったのである。

 しかし神道国教化政策をかかげる新政府は、欧米の先進文明を積極的に導入しながらも、キリスト教の進出を断固として阻止する方針をとった。キリスト教を「邪宗門」とする太政官の高札は、日本と締盟している諸国の宗教を侮辱するものとして、キリスト教諸国の外交団の抗議を招いたが、新政府は新旧キリスト教の動向をきびしく監視し、禁教の手をゆるめなかった。1868年、御前会議で浦上の全キリシタンを流刑に処することが決定される。浦上キリシタンの弾圧は、すでに幕府倒壊直前の長崎奉行所の処置が外交問題化していたが、新政府による大弾圧は、外交団のごうごうたる非難を招いた。新政府は、当初農民たちは政治犯であると説明し、弾圧が知れ渡ると、日本の国内問題であるとしてはねつけたのである。

 浦上キリシタンの多数は、流刑先で信仰を守って根強い抵抗を続け、日本政府のキリスト教弾圧に対する外交団の抗議は、時とともに大きな外交問題に発展していった。神道・仏教の側はキリスト教の排撃を唱えたが、殖産興業・富国強兵を至上命題とする政府は、欧米諸国との友好関係の強化と不平等条約の改正を急務としていたので、キリスト教の解禁はもはや動かしがたい大勢となっていったのである。浦上キリシタンをはじめとする日本人キリスト教信者の不屈のたたかいと、これを支援した欧米諸国の市民と政府の抗議活動によって、ついにキリスト教の解禁が実現し、日本における信教の自由は歴史的な第一歩をふみだした。

神道国教化政策の変遷
 明治維新当初、新政府の宗教政策の中心に進出した復古神道をはじめとする各派の神道家たちは、反外教意識を軸にキリスト教弾圧を実行し、仏教への打撃政策をつうじて大教による一元的なイデオロギー支配を実現した。 祭政一致の古代的スローガンに心酔していた神道家達は、神祇官によって多分に空想的な神道国教化政策の構想を打ち出したが、文明開化・富国強兵をめざす指導層は、キリスト教解禁を不可避とみており、反キリスト教、排仏思想を純粋に推し進めようとした神道家たちの政策は、早くも時代遅れとなり、方向転換をせまられたのである。廃藩置県の翌年、神祇官は神祇省に格下げされた。

 排仏毀釈の嵐は廃藩置県を境に鎮静化し、政府の急激な神道国教化政策も転換して緩和される方向に向かった。キリスト教解禁はすでに規定の方針となっていたが、1873年キリシタン禁止の高札も撤去され、キリスト教の布教が黙認されることとなった。仏教各宗は、キリスト教進出の危機を熱心に唱え、この一点で失地回復の契機をとらえようとしていた。仏教の僧侶は神職者に比べて、数の上でも圧倒的に多く、また教化力においてもはるかに勝っていたのである。政府は大教と相いれない本質をもつ世界宗教の進出を防ぐために、仏教をはじめ民間の諸宗教を動員して対抗する決意を固めた。

1872年神祇省は廃止され、新たに教部省が設置された。教部省では国民教化運動の一大展開を目指し、宣教使にかわって教導職をさだめ、「三条の教則」を通達した。それは、「第一条、敬神愛国の旨を体すべき事、第二条、天理人道を明らかにすべき事、第三条、皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむる事」の三条であるが、これは敬神愛国と天皇崇拝を全国民に教え込み、朝旨、すなわち天皇の命令への絶対的服従を徹底させるという意図があったのである。

 さらに教化の機関として、仏教側の熱心な運動によって大教院が設置された。開院式では、神前の一方には烏帽子直垂(えぼしひたたれ)姿の神官、他方には僧衣または烏帽子直垂をつけた僧侶が着座し、神前の八足机には魚鳥野菜を盛り、神官に続いて僧侶も神饌をささげ、柏手を打って礼拝した。こうして神官と僧侶が神勤の奉仕をし、ともに「三条の教則」を説教する神仏合併布教が全国的に行われることになり、明治維新当初の神仏分離は、わずか五年で逆転したのである。こうして神仏合併布教による活動は形の上では整ったが、寺院に神を祀り、僧尼が柏手をうって神を拝する光景は、不自然であり異様なものだった。教部省神道主導で、仏教や民間の諸宗教を挙げて国民教化に動員する方針であったが、内部では神道と仏教の紛争が絶えないことから、開明的な政府指導層の間では、この政策を疑問視する風潮が強くなっていったのである。

国民教化運動がもたらした、もうひとつの局面は、民間宗教への禁圧の激化であった。近代天皇制国家は、その成立の当初から、国民を思想的に支配するために、宗教の取り締まりと禁圧に力を入れた。キリスト教の禁止と仏教への打撃策を軸とし、民間宗教の禁圧が始まったのである。禁止取り締まりの対象となった神がかり・呪術・祈祷は、古来民衆の間で広く行われていたが、教導職の資格をもたない者の布教活動の処罰をした。教部省による民衆の宗教生活への干渉は、国民啓蒙政策という理由であったが、同時に国家神道を確立するための地ならしとなり、下からの自主的な宗教運動を「淫祠邪教」として弾圧する行為を正当化する役割をはたした。特に、幕末維新期にうまれた民衆宗教(如来教黒住教天理教金光教など)は、国民教化政策による干渉・圧迫・弾圧で、著しい苦境に立たされることになった。明治10年代に全国的に発展し、やがて近代の代表的な民衆宗教となった天理教金光教の両教は、国家神道の確立とともに、国家神道の従属を意味する基本教義の改変を迫られることになったのである。

 1872年、アメリカに駐在していた森有礼薩摩藩出身)は、外国人が日本の宗教弾圧に疑問を寄せるのに答えて、英文で「日本における宗教の自由」と題する小冊子を著わし、総理大臣・三条実美に建白した。その中で「仏教と神道という相反する信仰を結合せんとする」政策を無価値とし、「その創作された宗教をわが国民に対して押しつけようとする試み」をきびしく非難した。これは政治と宗教を混同して、信教の自由を認めない政府の宗教政策を、はじめて正面から理論的に批判したものであった。また同年、ヨーロッパ留学中であった西本願寺の僧・島地黙雷長州藩出身)は、政府に建白書を送って、「三条の教則を批判し、政教の混同は国家にとって不利益をもたらすと論じて、大教院の分離を建議した。ヨーロッパから帰国した島地の提唱で、真宗各派は連合して反対運動に乗り出し、1875年、真宗4派が大教院を脱退したのである。このことにより太政官は神仏合同布教を教部省に通達し、翌年大教院は解散した。二年余にわたる国民教化運動は解体し、教化活動は各宗が教院をもうけて自主的に行うことになったのである。

祭祀と宗教の分離
 1875年真宗4派が大教院を脱退し、大教院が廃止される形勢となったので、神官教導職は神道の半公的な中央機関として、神道事務局を設立した。神道事務局の設立には、真宗4派の大教院脱退ではずみのついた仏教側の巻き返しに対抗して、神道を統一された宗教として確立しようとする意図が込められていた。1880年同局の神宮遥拝所が東京日比谷に建設されることになったが、神道界ではその祭神をめぐって激しい内紛がおこったのである。

 この遥拝所は神道の中央神殿であった大教院の神殿を継承するものであったから、その祭神は従来どおりの造化三神(アメノミナカヌシ・タカムスビ・カミムスビ)と天照大神が考えられていた。これに対し、出雲大社宮司千家尊福(せんげたかとみ)は、幽冥界の主宰神、大国主命を加えて五柱を祭神とするように主張した。五柱説の理論的背景となった復古神道教義は、神道を顕幽の二界、すなわち生と死にかかわる教えとしていたので、顕界を主宰する天照大神と幽界を主宰する大国主命を祀る必要があるとして、どこまでも教化重視の態度を強調したのである。しかし、千家と並ぶ神道界の実力者であった伊勢神宮宮司大教正、田中頼庸(たなかよりつね)は、顕幽両界のことはすべて祭神四柱の神徳にそなわっていると反論し、五柱説を斥けた。

祭神論争は千家を支持する出雲派と、田中支持の伊勢派に二分する形勢となり、神道界内部の対立を浮き彫りにした。両派の対立で神道界は紛糾し、神道の権威を守るうえからも重大な事態となったのである。祭神論争をめぐる混乱は、神道界のみでは到底収拾できなくなり、ついに政府に解決を求めるに至ったが、結論を見出すことはできなかった。1880年明治天皇の命で、東京に神道大会議を開くことがきまり、会議は結局、天皇の名によって事態の収拾を図るための手続きの場となった。宮中の神霊は、天照大神天神地祇・歴代皇霊をさしており、遥拝殿の祭神は、天照大神のみを表記することに改めたために、出雲派の主張は斥けられ、伊勢派の四柱も姿を消した。

 祭神論争の決着によって、神道を宗教として確立しようとした出雲派の路線は、完全に否定され、神道界では祭祀と宗教を分離し、明治維新当初の祭政一致の国是に立ち帰るべきとの主張がさかんになった。政府は、神道界の動向にこたえて、祭祀と宗教を分離して国家神道を確立する政策に踏み切ったのである。祭祀と宗教の分離は、神社神道から宗教としての機能を切り捨て、その全施設と全教職者をあげて、祭祀のみの宗教に限定する措置であった。そして

天照大神と伊勢神宮成立の経緯

記紀神話には「大化の改新」以前に、天皇家天照大神を祀ったというはっきりした記述は見えない。実際は大海人皇子(のちの天武天皇)が壬申の乱の時、天照大神に先勝祈願をして勝利をおさめ、これが契機となって天照大神は皇祖神への道を歩みだしたといわれている。天武天皇が戦陣において祀った天照大神というのは、もともとはアマテルミタマとか単にアマテルと呼ばれていた日の神で、日本のどこの村でも昔からそれぞれに信じられていた霊魂である。大空の自然現象そのものの魂、日・月・風・雷・雲であるから、日の神、月の神、風の神、雷の神とも雲の神とも考えられていた。

天つ神は大空を舟に乗って駆け下りてきて、めだった山の頂上に到着し、山頂を出発して、中腹をへて山麓におりくる。そこで人々が前もって用意しておいた樹木に(御䕃木(みあれぎ))に天つ神の霊魂がよりつくのである。その天つ神がよりついた樹木を川のそばまで引っ張っていき、川のほとりに御䕃木が到着すると、神は木からはなれて川の流れにもぐり姿をあらわす。これが神の誕生であり、この状態を御蔭または御生(みあれ)と呼んだ。そして神が河中に出現するその時に、巫女が川の中に身をくぐらせ、御生する神を流れの中からすくいあげ、自ら機織りし作った神衣を捧げ、その神の一夜妻となる。また神が巫女に婚うときには、蛇(竜)体となって訪れると信じられていた。伊勢神宮天照大神もその例外ではない。このように天照大神とは、もともとは蛇神であり男性神であるが、霊的な存在であり、その後神蛇の妻である巫女が祀る側が祀られる存在になったのである。

伊勢神宮天照大神を祭神とする皇大神宮(内宮)と、穀物神である豊受大神を祭神とする豊受大神宮(外宮)から成っている。皇大神宮(内宮)は、伊勢の宇治というところに鎮座しているが、宇治はもともと「川の神」を祀る祭場だったところであり、年に一回、川の神を迎える「滝祭り」をおこなっていた。皇大神宮を参拝する人は、宇治橋を渡ってしばらく神域を歩いて行き、右手に五十鈴川の流れを、そのまま手洗い場にとりいれた石畳に行って、手を洗ってから参拝するのが、昔からの習慣になっている。ここが昔の「川の神」の祭りの聖地だったのである。五十鈴川の川の神は、「滝祭りの神」と呼ばれて、昔はもちろんのこと、現在でも皇大神宮ではたいへん丁寧に祭りをしている。このように大事な神なのに、この神には社殿もなければ特別な施設のない、もともとは姿なき神社であった。ご神体は水底の竜宮にあるといわれ、滝祭りの神は竜、すなわち蛇の姿で現れる水神・川の神と信じられていたのである。このように川の中に生まれる蛇神が、皇大神宮の前身で「伊勢の大神」と呼ばれていた神であった。

 古代の神社は、特定の名をつけた神を祀る人々の政治団体であり、そのまま国であり実質的な独立国でした。「伊勢の大神」は遠い昔に天皇家によって攻め従えられた、朝廷の支配に服属した独立国であり、朝貢国でもあった。天皇家に征服されて服従をちかった地方豪族は、自分たちの守護神とともに、天皇に投降した。なぜなら昔は祭政一致であり、村の首長は神を体現する人だったからである。族長の娘は巫女で、神とともに天皇家に投降しなければならず、族長の娘は天皇家にさしだされて采女(うねめ)と呼ばれる女官になった。采女の本質は巫女であって、自分たちの国の神の魂を天皇に捧げ、天皇の身につけるのが仕事とみなされていたのである。また天皇は征服した国の神の魂を身につけることによって、その国に支配権を得ると考えられており、そのような手続きをとうして天皇は日本の大王になることができたのである。

7〜8世紀は天武・持統天皇の意志によって、天皇家の神権的絶対性を確立するために、「古事記」「日本書記」を編纂しようと、そのための材料が収集されていた時期である。実は日本神話の多くの部分の原型は、もともとは伊勢の土豪と民衆のものであったらしいことがわかっている。伊勢の地方神話が、大和朝廷への服従の誓いのしるしとして捧げられ、宮廷神話の中に持ち込まれていったものなのである。そのころ天皇家にアマテル(太陽神)の信仰があり、天武天皇が戦陣で決死の思いで太陽神に祈った過去性と、南伊勢の語部(かたりべ)が、宮廷で同じ性質の南伊勢の太陽神の信仰をさかんに物語っていたという現実とが結びあい、この伊勢大神天武天皇によって尊敬されることになった。

壬申の乱のころには、南伊勢では神国造として伝統的権威を度会(わたらい)氏がもっていたので、天武天皇は最初の斎王として大来皇女を、度会氏の居住地である宮川河口におくりこみ、主として宮川の川の神祭りをしていた。やがて、伊勢の土豪の勢力関係が破れ、度会氏のもとにいた宇治土公(うじのつちぎみ)氏が台頭するのに呼応して、都では度会氏につながる天語連(あまのかたりむらじ)をしのいで、宇治土公氏の女系の猿女(さるめ)君が台頭したのである。そのような勢力関係の推移から、伊勢の大神の斎場は宮川流域から五十鈴川流域に移り、天皇家皇大神宮は猿女君の故郷である宇治に定まった。そして壮大な神殿をたてることは、アマテラス神話が実際にあったことという既成事実として民衆に示すためであった。

 それでは豊受(とようけ)大神宮(外宮)はどのように成立したのだろうか。外宮が成立した目的は、天照大神に食事を供えることだった。御饌(みけつ)料理である稲を保存していた高倉を宮殿風に造り変え、ここに豊受大神を祀ったのである。穀物神・豊受大神は等由気大神(とよゆけおおかみ)とも、通説では豊宇賀能命(とようがのみこと)とも言われている。実はインドネシアなど南方では蛇のことをウガルといい、宇賀神も蛇神とされているのであるが、外宮には蛇信仰のキーワードがいくつか出てくる。高倉・穀物神・宇賀である。さらに外宮の床下には、古来「秘中の秘」として公開されることのない「心(しん)の御柱(みはしら)」と呼ばれる秘密の柱が立っている。この心の御柱は素木の丸柱で、五色の布で捲かれており、「心の御柱のみ下」こそ、伊勢神宮の最も神聖な場所とされている。前述した通り外宮の御饌殿(みけでん)は南方系出自の穀倉が神殿の原型であり、この心の御柱も後には様々な神が習合されてはいるが、古儀においては男根像そして蛇の造形である。そして外宮の神官は代々度会(わたらい)氏が務めているが、内宮・外宮の成立当時、南伊勢において最も有力な氏族が度会氏であったため、それを切り崩すために外宮を造って彼らに祀らせるというのが朝廷の施策であったらしい。つまり豊受大神と名乗ってはいるが、外宮で祀られているのは、地方神であり蛇神である伊勢大神そのものと推測されるのである。

ところで古い昔の天皇は、天皇と皇后のカップルを指していた。皇后は巫女で、天皇は皇后にのり移っている天つ神に託宣を乞うて質問をする人(審神者(さにわ))であったらしい。時にはそれだけにとどまらず、天皇自身が神に仮装するということをなし、ついに天皇は現人神と思われるようになった。天皇は神に仮装して神妻を訪れるが、その神はもともと蛇体と化して神妻を訪れていたと言われている。それで人間天皇が神に扮した状態は蛇の姿であるという信仰があり、天皇が歩まれた後には竜のうろこがおちているという俗信があり、竜顔という言葉が天皇に対して使われたたりしたのはこのためである。天武・持統ふたりの天皇には、最後の原始信仰(蛇信仰)的な天皇という一面があった。天武天皇が即位する前に出家して、持統皇后とともに吉野の山にこもったのだが、それは持統天皇を巫女として川上の神(蛇神)にふれ、神としての資格を得ようとする宗教行為でもあった。

しかし7世紀前後は、当時の先進文明国、中国から中国哲学(易学)や中国経由で仏教など、先進文化が伝来した時期である。古代日本の天皇は、国家主義者であればあるほど、中国の皇帝像に自らを近づけ、自身の姿をそこに重ね合わそうとした。天武天皇は当時、強力な皇権推進者であるとともに、中国哲学の体得者でもあった。天皇を神とする、しかも宇宙的規模における現人神としての天皇という認識を、自他ともに抱かせたのは天武・持統朝であった。「天皇」という名称を選んだのは天武天皇とされているが、これは中国哲学の「天皇大帝」からきている。天皇大帝とは天宮の中心「北極星(太一(たいいつ))」を表しており、太一とは北極星の神霊化である。さらに国土や現世を代表する天皇の昇格は、同時に神界である伊勢神宮の昇格がなされて完成するというように、伊勢神宮の祭祀は中国哲学道教の易学(陰陽五行説)に基づいて改革されている。天照大神は女性としては陰、太陽神としては陽ということになり、陰陽の宋主、つまり太極となる。それが太一であって、ここにおいて天照大神は太一と一体となり、「心の御柱」をその象徴とする存在になった。しかしすでに天皇は太陽の後裔を名のっていたので、表だって公表できない事情もあり、「心の御柱」と「北極星(太一)信仰」は秘中の秘とされ一般には公表されていない。

天照大神が女性とみなされる下地は、南伊勢の信仰の中で日の神を祀る女性(巫女)を重視していた事情や、中国哲学・陰陽五行説からもきているが、これだけで天皇家の祖神、太陽神を女性神とするのには無理があり、男性神にしておくのがより自然であるが、あえて天照大神を女性神と決めてしまったのは、天照大神持統天皇の治世に、持統女帝をモデルにしてつくられたということが決定打となったと言われている。

天照大神がくだした「天壌(てんじょう)無窮(むきゅう)の神勅(しんちょく)」にみられるような絶対的な王権は、天武・持統朝において胎動し、持統天皇の治世にもっとも強力に固められたものである。天皇の地位は、もはや大和朝廷の豪族の総意を反映して擁立されるという時代は過ぎ去り、天皇家の内部でも持統天皇の子孫によってのみ皇位は継承されるべきだという意思があった。それは次の天皇擁立の時に、毎回激しい争いが起こり多くの血が流されたために、世襲制にしようという動きがでたということである。そのため天皇の地位が「神授の神権」だから尊いということを、世間に認識させなければならなかった。つまり、女帝をモデルにした天皇家の始祖・天照大神を、絶対的至高の神として系譜の上に位置づける必要がうまれた。その天照大神の権威の名において、天皇の地位の永遠の保障と、皇位継承のしかたを指示する宣言を発表する必要が生じたのである。これが皇位継承の新しい伝統主義の宣言で名高い「天壌無窮の神勅」といわれる宣言である。

この宣言には、天照大神がその孫に与えた言葉が、天照大神の神権によって地上の王を決め、地上の王は天照大神の子孫に限ると決めている。そして天照大神の子孫の皇位は永遠だと保障しているという内容である。つまり持統天皇をスタートとした万世一系なのである。神話の中で天照大神は、子ではなく孫に降臨させている。天孫降臨とは天照大神が孫のニニギに、皇位を譲り与えたことの神話的な表現であるが、は持統天皇が自分の子孫に皇位継承をするということに固執し、息子の草壁皇子が病弱で即位をまたずに病死したために、皇位を孫の文武天皇に継承した史実を神話化したものと言われている。おばあさんが孫に皇位を譲るという異常な事態を、正当化するための天孫降臨神話だったのである。

さて皇大神宮は、持統天皇文武天皇皇位を譲った翌年に完成した。持統天皇皇位継承から5年後に亡くなり、文武天皇も病弱のために持統天皇死後5年後に亡くなっている。持統天皇があれほど固執していた子孫の血脈も、わずか4代をもって永遠に断絶したのである。しかし藤原仲麻呂によって、やはり百済系の桓武天皇が擁立され、天皇家藤原氏の二人三脚はそれ以降も続くことになる。また天照大神伊勢神宮天皇家の権威の象徴として、宗廟として、神界として存在し続けた。

8世紀の半ばには、中国経由で伝来した仏教により、古代仏教国家の体制が成立した。実はインド発祥の仏教も、インドのナーガ信仰(蛇信仰)と深いつながりがあり、ナーガが釈迦の守り神とされている。中国では「龍」と訳されて、龍とともに原始仏教はかなり早い段階で日本にはいってきていたようであるが、その後仏教が中国でさかんになり、日本に本格的に入ってきたのである。日本で仏教が花開いたのは、この龍という存在がなじみ易かったせいもあると思われる。古代から幕末に至るまで、平均的な日本人の多くは、仏は神よりも一段上の尊い存在と信じて疑わなかった。本地垂迹説により神仏習合がなされ、神と仏は切り離せない関係にあり、普遍的な価値をもつ仏に、限定的な価値しかもたない神は従属しているとする宗教観念を受け入れていたのである。

実をいうと持統天皇は、原始的な固有信仰である蛇神信仰を利用して、神権的な天皇制を教化しながら、しかも中国風の絶対的な古代専制王権にきりかえていった人でもあり、仏教も尊信していた。それゆえ記紀編纂・天照大神伊勢神宮の成立後は、原始蛇神信仰を古臭いものとして遠ざけており、また持統天皇の死後には、それにかかわった人々も切り捨てられていったのである。そのような中で文武2年以降の伊勢神宮は、一応律令国家のもの、そして天皇のものであるが、それはやはり表面のことであって、祭りの根底や経営の内実を検討してみると、内宮は宇治土公氏・荒木田氏のものであり、外宮は度会氏のものという存在であった。また伊勢神宮を構成しているその他の123社は、南伊勢・志摩の村々に存在はしているが、もともと村人の神であって、文武2年以降も、地域の村の共同体がまつる神としての本質を、少しも変えてはいないのである。実際に持統天皇も含めて明治に至るまで、伊勢神宮を参拝した天皇は一人もいない。建前としては、伊勢神宮天皇家の宗廟であり、神界(死後の世界)であるので、現世の王が足を踏み入れてはいけないという禁忌があったようであるが、実際には持統天皇の死後には、天皇家伊勢神宮の関わりは非常に希薄なものではなかったかと想像されるのである。

そのような中で鎌倉時代に「伊勢神道」なるものが現れた。これは伊勢神宮・外宮を基盤として形成された神道説で、「外宮神道」とも、また外宮の神職であった度会氏によって説かれたので、「度会神道」とも呼ばれている。豊受大神宮(外宮)を皇大神宮(内宮)と同等以上の存在であるとし、外宮の祭神、豊受大神天地開闢に先立って出現した天御中主神および国常立神と同一であり、天照大神をしのぐ普遍的神格だとする。また古典や古伝を駆使して、天照大神神道は日本開闢以来、根本的な日本固有のものであることを示そうとしている。度会氏の主張は結局、伊勢神宮の中で最も神聖な場所であるという外宮の床下に存在する「心の御柱」を根拠にしていると思われる。

伊勢神宮の祭祀の中で最も重要な祭祀として位置づけられているのは、「心の御柱への供饌」と「神衣奉献」であり、心の御柱の供饌は主に外宮で行われ、神衣奉献は内宮だけで行われている。中国人の考えによれば、耕は男子、織は女子に属した。耕と織は、要するに衣食であって、共に人間生活に必要不可欠である。それが祭りに持ち込まれていることは明らかである。供饌は新穀を心の御柱の下に供えることであり、神衣奉献とは、神の衣服を奉献する儀式である。これは、陰陽五行説的には、耕は男子で陽に属し、織は女子で陰に属するというところに意味があり、陰陽の両儀が相まってはじめた可能とされた。さらにこれは、原始信仰からすると外宮の「心の御柱」は男根像・蛇神を表しており、その男性神穀物を供えるという意味がある。内宮の天照大神は女性神であり、年に一度、神に衣服を捧げるために機織りをしていた巫女(神蛇の妻)をあらわしているので、神衣祭は内宮だけで行われる。そのような意味からすると外宮が主体となり、内宮に対して上位となる。また、「心の御柱」は陰陽五行における太極であり、宇宙神・太一の象徴とされたのだから、天照大神よりも上位ということになる。このようなことから、外宮上位という考えが生まれたのであろう。

ところで伊勢神宮の制度の中でも、特筆すべき制度として「大物忌(おおものいみ)」という神聖童女祭祀者という制度があげられるだろう。この制度は神宮制度が改正される明治4年まで、つまり近年まで存在した職制である。大物忌は12、3歳以下の童女である。この幼い聖童女の身分、およびその職責はきわめて特異であり、「皇大神宮儀式帳」(延暦23年、撰進された最古の神宮諸儀式の集録)には、「今の禰宜(ねぎ)の神主公成たちの先祖、天見通命の孫の川姫命を倭姫の御代わりとし、これを大物忌と名付けて、以来、この童女伊勢大神につけ奉り、奉仕させてきた。今もこの大物忌、斎内親王(いつきのひめみこ)より大神に近く仕えまつり、昼夜となくお仕えして、その責務は最も重いのである。これが大物忌の縁由であるが、この父も同様に、忌み慎んで大神にお仕えしている。」とある。斎内親王とは、天皇家から送られた皇女であり、御代の交替ごとに新たに卜定(ぼくじょう)され、3年におよぶ潔斎をへて伊勢に赴かれる至高の祭祀者である。その斎内親王を超えて大神に最も近く、昼夜を分かたず付き奉って、その任が最も重いといわれたのが「大物忌」なのだ。その仕事は重要行事における正殿の開扉、重要な神祭に先立って行われる清掃においても、「心の御柱のみ下」の辺りは、大物忌の奉仕によった。この「心の御柱のみ下」が伊勢神宮の中でも最も神聖な場所で、旧9月の神嘗祭の「湯貴(ゆき)の大御饌(おおみけ)」もこの御柱の下に供されるが、この献饌もまた大物忌の役であった。大物忌はひとたび選任されるともっぱら斎戒につとめ、宮廷外に出ることは禁ぜられ、出た場合には即刻退くことになるという厳しさであった。こうして大物忌は成女となるまで在任し、父の喪にあわないかぎり大神に奉仕したのである。伊勢神宮にとって、斎内親王はやはり外部からきたお客さん的な存在であったらしく、本当の神妻的な巫女は度会氏・宇治土公氏・荒木田氏から選ばれていた。しかもそれは5歳から13歳までという少女が担当していたのである。

なぜ少女が担当したのであろうか。伊勢大神とは表面は女神の天照大神であるが、その背後に潜むものは、?日本古代信仰によるときは、蛇体の大祖先神 ?中国哲学導入後は、宇宙神・太一が習合されている。そのどちらも大・陽であり、その相手として小・陰が組み合わされる。それで末娘である少女が選ばれるというのは、陰陽五行説からくる組み合わせなのであるが、聖書的な観点でいえば、エバと蛇(天使長ルーシェル)との堕落、アダムとエバの堕落がちょうど10歳から13歳前後という少女期であるということから、非常に意味深い内容となっている。

伊勢神宮の神は古代神、蛇神である伊勢の大神を土台として、天照大神という宮廷神が習合され皇祖神となった。さらに中国の「天皇大帝」という北極星・太一神が習合されてもいる。しかし土着の首長であり「伊勢の大神」の神官であった氏族が、そのまま伊勢神宮の神官を引き継いでいるために、どんなに様々な信仰が習合されても、古代原始宗教(蛇信仰)が本流にあるということは十分に考えられる。さらに皇室神道の祭祀は、古代仏教国家の体制下にあっても、天皇の権威が解体する危険を避けるために、厳しく仏教化を拒み、古代中国における儀礼、行事に積極的に道教を導入して仏教化に対抗した。そしてそれは幕末まで受け継がれたのである。また外宮、度会氏による伊勢神道には「神道五部書」と呼ばれる教典的な書があり、現在は偽書とされているが、中世には吉田神道、幕末には儒家神道に多大な影響を与え、「国家神道」樹立につながっていった。

日本の古代原始宗教

 日本の縄文時代は約一万二千年前から始まり、約一万年続いた。中期から増大した縄文土器には蛇の造形が数多く見られ、単なる装飾というよりは呪術的な印象が強くあらわれている。また頭にマムシを巻きつけた女性の土偶や、男根を象った呪術シンボルとみられる石棒も、縄文中期からその数が増大している。近年の考古学によって、縄文中期に稲や稗を栽培していた痕跡がみつかったことから、縄文中期にはすでに農耕が存在した可能性が高く、新石器時代の日本の縄文時代にも、農耕文化によって世界的に伝播した主要な豊穣の呪術的シンボルである蛇・渦巻文・女性像・男根像がすべて見出される。このように日本は蛇信仰のメッカであった。

 紀元前6〜5世紀ごろから、倭人と称された弥生人が日本に渡来してきた。実は日本人は二重の構造になっていることがわかっている。すなわち身長がやや低く、鼻梁が高く、丸顔二重まぶたの人達が、南九州と東北以北に分布している。その中間には身長がやや高く、顔の長い一重まぶたで特徴づけられる人々が多いことがわかってきた。また言語においても、南九州と東北以北には方言に共通性があり、その中間には違った特徴がある。この前者が縄文人、後者が弥生人倭人)である。

 倭族は新石器時代の始めごろ、雲南省の滇地(てんち)またはその周辺に点在する湖畔で、水稲の人工栽培に成功し、水稲農耕という生産様式から高床式建物を考案した。彼らはこの稲作と高床式建物を携えて、雲南から各河川を通じて東アジア・東南アジアへと移動し広く分布していった。韓半島経由で日本に渡来した倭族のルーツは、中国の長江の中・下流域に住んでいた「越」の人々であるといわれている。紀元前1世紀にこれらの国が滅亡したことにより、本格的に朝鮮南部や日本へ移動してきたのである。また彼らは海洋民族でもあり、体に「文身」といわれる竜(蛇)の刺青をしていたのが特徴であった。海人族といわれる「わだつみ神」や「住吉神」は早い時代に渡来してきた民族で、海蛇を神として信仰していた。そして朝鮮南部と北九州を中心に倭国と呼ばれる国々を築いたのである。それに対して、南九州は南島系(インドネシア・フィリピン等)の海人族で同様に海蛇を信仰していた。ルーツ的には、朝鮮経由できた中国大陸の倭族と、南島から台湾・沖縄・薩南諸島を経て、南九州に渡来した二系統の倭族がいるが、倭族に属する全ての民族あるいは部族にみられるのは、縄文時代同様、農耕神を蛇と見る思想(蛇信仰)である。さらに倭族には首狩りの風習もあったようである。

 これらの国々は、記紀神話における神武東征の物語のように、九州から畿内に移動していった。最も早く畿内に進出したのは、ニギハヤヒを祖とする物部氏である。物部氏は、青銅器の文明で急速に縄文社会を征服していき、邪馬台国を築いた。また物部氏が携えていったと思われる遠賀川式土器の分布状況から、邪馬台国は九州・瀬戸内海沿岸・畿内・中部・神奈川と広範囲に及んでいたようである。

 物部氏は日本における強力な蛇信仰の担い手であったと推測される。それは物部氏に関わる人の名、地名、そのレガリアに、蛇および南方出自の跡が色濃くうかがわれるからである。物部氏の祖はニギハヤヒであるが、その子の天語山(あめのかごやま)命(のみこと)は別名、高倉下(たかくらじ)という。この高倉とは高床式の倉であって、倉の所有者がその倉の名で呼ばれるほど、倉は富の象徴であった。倉は生命を守り、富の源泉としての米をはじめ穀類の収納所で、住居に対して守護的な役を担っていたのである。さらに高倉は鼠害から穀類を守る設備だから、そこには鼠の天敵としての蛇、あるいは蛇を象徴する蛇行剣が祀られていた。蛇が祀られている倉は、その意味でも住居の守護神的存在となるが、これらの理由から、穀倉が神社の起源になっていく可能性は非常に高く、伊勢神宮の御饌殿(みけでん)(外宮)はそのよい例である。

 日本の古代における統治のあり方は、祭事権をもつ姉(または妹)のもとに、政事権・軍事権を持つ弟(または兄)がいる祭政二重主権の形態であった。そして祭事権を持つ姉または妹が部族の長であり、国の王とされていた。つまり女王国である。男王が立った場合は、祭事権を兄が持ち、弟が政治・軍事権をもっていた。祭事権をもつ姉もしくは兄は生涯独身をとうして、弟が血統を残した。いわゆる女王国であるが、女王は巫女(シャーマン)であった。原始の祭りは神蛇とこれを祀る女性蛇巫(じょせいへびふ)を中心に展開する。さて祭りは「女性蛇巫が神蛇と交わること」「神蛇を産むこと」、「現実に蛇を捕まえてきて飼育し、祀ること」を意味している。時代が降ると、巫女は神蛇と交わる擬(もど)きをし、巫女自身が神の種を宿し妊し、最終段階で自ら神蛇、現人神として人々の前に顕現し、村人と交歓するようになる。祭りは巫女の「擬き」に終始することになり、この形は現在も沖縄および薩南諸島に残る祭祀の形態である。また朝鮮半島においては、済州島に蛇信仰やシャーマニズムが残っている。

 最高女性蛇巫としては,魏志倭人伝に登場する「卑弥呼」があげられるだろう。魏志倭人伝には卑弥呼は鬼道を司っていたと書かれているが、鬼道は中国の民族宗教である道教の先駆け的存在で、古くは鬼道、神道、真道などと呼ばれていた。卑弥呼がおこなっていた鬼道はおそらく巫鬼道というもので、漢代に流行した原始宗教で民間信仰である。当時の巫は若くて美しい女性が、きれいな着物を着て歌い踊って神を降ろし呪術をおこなっていた。道教における先祖神は伏儀(ふっき)と女媧(じょか)という兄妹神であるが、この神は人面蛇身で腰から下が蛇であり、絡みついているので夫婦神でもある。鬼道は道教の元となった宗教なので、神は蛇神であったことは間違いない。

 卑弥呼が率いる邪馬台国女王連合(物部朝)は、対立していた句奴国(葛城朝)によって滅亡し、その後、崇神王朝が登場してヤマトを統一した。鹿児島には朝鮮半島南部にあった伽耶国の金首露王の息子たちがやってきたという伝承があり、またその子孫が天皇家の祖ニニギの先祖であり神武東征に至ったという。第10代崇神天皇は、史家によっては初神天皇に重ね合わせられる天皇であるが、金首露王の血統つまり伽耶系の王朝が崇神王朝であったと考えられる。金首露王の妻はインドのアユタ国から嫁にきたという。アユタ国は太陽信仰のメッカでもあり、インドは世界でも有数の蛇信仰(ナーガ)の地でもあった。古代において太陽と蛇とは同一のものと理解され、太陽の使いということで鳥の信仰も盛んであった。

 崇神天皇から仲哀天皇までが伽耶系であり、蛇信仰に加えて太陽信仰や鳥信仰が導入されている。祭事権は姉(女性)から兄(男性)へと移行していった。「随書」に倭の風俗を訪ねられて「天をもって兄となし、日をもって弟となす」と答えたという箇所がある。兄である天としての王は宇宙の主宰者として君臨し、それに対し弟なる日としての王は、宇宙の中の一つである太陽として治める者であるという意味である。日本古代の神祭りは幽祭といって、子の刻(午前零時)から寅の刻(午前4時)にかけて行われた。日の出前に神祭りをし、兄なる王は弟なる王から政事を聞き、それを祭事として神に奉告し、国の安泰と繁栄を祈願したのである。つまり太陽神は表向きであり、本当の神は蛇神である。それと同時に古墳時代に入り、宗教改革によって銅鐸から銅鏡が新しい王権のシンボルになった。さらに崇神王朝という強力な王権は、灌漑技術と鉄器を用いた農業技術の向上による稲作生産の増大と、鉄製の武器による軍事力の強化が特徴であった。鉄は生産技術だけではなく、軍事技術にとっても革命的だったのである。

 4〜5世紀は、朝鮮半島情勢の混乱によって多くの渡来人が日本に押し寄せた。神功皇后・応仁天皇から血統が百済系に変わったといわれている。この応仁王朝はいわゆる征服王朝であって、一般民衆の倭人とは血統が違う。また応神朝から「馬」が日本に持ち込まれたらしく、前述した大陸の騎馬系の流れを汲み、「天と地」の思想が導入されたと思われる。しかし、応仁天皇の母とされる神功皇后は、海人族との関係も深く、蛇信仰の流れを踏襲している。その証拠に神功皇后が祭神の一人とされる「住吉大社」は、住吉三神として海神を祀っているが、この住吉神は蛇神である。

 5世紀には、南朝東晋や宋の時代に、倭の五王(讃・珍・済・興・武)が朝鮮半島における倭国の軍事行動権や経済的利益の国際的承認を得るために、盛んに朝貢をしたと「宋書 倭国伝」に記されている。これらの王たちは応仁天皇の血統であり、半島との関係が極めて深い。この流れは7世紀の天武・持統朝まで続き、その途上においては百済滅亡という国際情勢などもあって、さらに大量の百済人が渡来して王朝を形成したのである。しかし宗教や政治形態においては、推古天皇が巫女的立場で聖徳太子が政治を担当する、あるいは持統天皇天武天皇の関係も巫女と王という立場であったなど、一時はその王権が男性に移ったが、この時期には再び女性と男性の祭政二重主権にもどっており、日本の古代統治の形態がこの時代まで継承されている。

 天武朝においては「日本」という国号が使われ始め、国家の体裁をととのえるために「古事記」「日本書記」の編纂がはじまった。さらに持統朝において万世一系とされる古代天皇制が確立され、天皇家の宗廟としての伊勢神宮が成立したのである。持統天皇天武天皇の死後、単なる巫女的立場のみならず政治も担当したことによって、完全な女王になった人である。この人が日本の天皇制を絶対的なものにしたことから、天照大神持統天皇という説もある。またその影の立役者といわれる藤原不比等も、天皇家外戚としての位置を固めた。藤原氏はもともとは物部氏の中からでた血統であり、やはり蛇信仰の流れを汲む氏族である。仏教を推進した蘇我氏に対して反対の立場をとったのが物部氏と中臣氏であるが、権力上の対立もあるが宗教上の対立もあったと考えられる。最終的に後の天智天皇藤原鎌足によって、蘇我氏は滅ぼされた。そして藤原氏は第二次大戦が終結するまで、天皇家外戚としてありつづけたのである。天皇家が血統的に蛇信仰に支配されていたというのは、藤原氏の存在にも原因があるといえる。

 このように日本の古代信仰は蛇信仰であったことがわかる。吉野裕子氏によれば、「古代の日本人の死生観は、人間は本来蛇であって、その生誕は蛇から人への変身であり、死は人から蛇への変身である。つまり祖霊蛇の領する他界から来て、他界に帰するということである。よって天皇家の祖霊が蛇であることは当然であり、古代において世界各国の神話でも見られるように、太陽と蛇は密接に関連するので、太陽神が蛇神であることはきわめて自然に納得される。天照大神は、この祖霊としての伊勢大神を祀り、この蛇神と交わるべき最高の女性蛇巫であった。しかし時代がたつと、皇室の祖が蛇であってはならなくなり、最高女性蛇巫はその対象であった伊勢大神に自己を昇格させて、天照大神になった。」これが天照大神が女性神となった理由という。次は天照大神の成立の経緯と伊勢神宮について調べてみよう。

蛇信仰と牛信仰

 宗教の始まりは、性と豊穣の呪術である。世界各地から旧石器における、乳房や腰や性器が強調された女性像、および男根像が出土されている。これは「産むこと(多産)」「食べること」、つまり「生きること」への意志と願望が込められた呪術であった。新石器時代においても女性像は地母神として農作物の豊穣と結びつけられており、男根像もそうであった。またそれらの像は、蛇が絡んでいるものや蛇を暗示する渦巻き模様などが彩色されているものが多数あり、古代の人々は性器信仰と蛇を結びつけているのである。それは蛇の持つ再生や不死性を、作物の豊穣と関係づけているという理由や、蛇の造形が男根に似ている、とぐろを巻いた姿は女性性器に似ているという類似性があげられる。また蛇への恐怖心が畏敬に変わったという説もある。信仰が高揚したのは農耕が始まる新石器時代になってからだが、農耕には水が不可欠であり、大河は大蛇の姿に類似し、蛇は雨をもたらすと信じられていた。農耕文化の拡大とともに蛇の呪術は全世界的な広がりを見せたのである。

 蛇信仰は、一説によれば古くエジプトにおこって世界各地に伝播し、インド・極東・太平洋諸島を経てアメリカに達したということである。エジプトではコブラ(毒蛇)の信仰がさかんで、コブラは「火」「太陽」のシンボルであり、その造形は太陽神・王たちの冠および額の装飾となった。インドは多数の蛇の棲息地であり、その信仰も多岐にわたるが、なかでも顕著なものはコブラの神霊化「ナーガ」の信仰である。この信仰はヒンズー教・仏教にも影響しており、ナーガは仏教の守護神でもある。日本にもこのナーガ信仰はきわめて早い時期に入ってきたと推測される。ナーガはナーギーと夫婦神であって人面蛇身の姿をしており、それが日本の夫婦神イザナギイザナミのルーツをいわれている。中国の祖先神は伏犠(ふっき)と女媧(じょか)という人面蛇身の夫婦神であり、日本に大きな影響を与えた道教の祖である。その後、蛇から龍という空想の神へと変身し、雨をもたらすものとしての「龍」は皇帝の権力をあらわし守護神となった。また伏犠は八卦の祖といわれており、易学(陰陽五行)や風水につながっている。台湾では原住民の高砂族に蛇信仰が顕著で、毒蛇の百歩蛇(ひゃっぽだ)が信仰の対象となっている。

 世界各民族の蛇信仰の様相は、複雑ではあるが共通するところも多く、次のように要約できる。?人間の祖先神 ?蛇と太陽・火との同一視 ?聖地・聖所・土地・屋敷の主(死霊との関連において) ?雨神・豊穣神・穀物神?脱皮・変身・新生・永生・浄化・転生 ?巨大蛇実在の信仰 ?悪霊・妖怪・湖沼の主 ?信仰の対象として飼育される蛇 ?蛇骨の信仰等である。 

 ところで人類最古の都市文明を建設したシュメール人によって、蛇信仰に対立する新しい宗教がメソポタミアに発生した。このシュメール人は南メソポタミアに最初に定住した民族ではない。もともとは前5000年ごろから農耕民が住んでおり、その出土物から彼らは大地母神や蛇信仰をもっていた。そこに前4000年後半にシュメール人が侵入したのである。シュメール人がどこから来たかはわかっていないが、土を耕すための牛犂と運搬のための牛車を開発し、牛車を戦車としても使用した民族である。また王を天から降った牡牛にたとえる神話をもっており、メソポタミアに定住する以前は牧畜にたずさわり、天や牛を崇拝する民族であったと推察される。

 そのことによって蛇と女性という豊穣のシンボルは、天の男神(牡牛)と天の女神とに置き換えられるとともに、蛇は天の神の敵役となった。しかし旧石器時代にさかのぼる大地母神と呼ばれる女神たちは、そのまま信仰され続け、権力に取り込まれることによって、系譜的にも天の神々と結びつけられたのである。メソポタミアの神話では、牡牛である天の神が登場するが、主神マルドゥクも牡牛とみられていた。イスラエルの神ヤーウェもそうであり、イスラエル人がヤーウェのために犠牲として供えるのも牡牛であった。さらに天の代表する天体は太陽であり、牡牛は太陽、牝牛は月のシンボルと考えられ、天と地・太陽と月、これらの世界の基本的な秩序は牡牛と牝牛によって理解されていたのである。

 では牛が神となった理由は何であろうか。牛が農業の増産に多大や寄与をしたこともあるが、決定的な理由は牛車にあった。これは運搬用としてだけではなく戦車としても使用され、王権のシンボルとなったのである。つまりメソポタミアは農業で繁栄した都市社会を、軍事力にたけた牧畜民が征服者として支配する歴史であった。

 ところで農耕民(蛇信仰)と牧畜民(牛信仰)の対立は旧約聖書の創世記に登場する。それは有名な失楽園物語である。エデンの園において「取って食べてはならぬ」と神によって命令された禁断の実を、エバは蛇にそそのかされて食べてしまう。蛇はこの実を食べれば神のように目が開けると教え、エバを誘惑して禁断の実を食べさせたのである。そしてその実をアダムにも食べさせた。それが原罪となって、人間始祖となるアダムとエバは堕落し、エデンの園を追放されたのである。その後エバは身ごもりカインとアベルを産む。神は成長したカイン・アベルに供え物をするように命じ、ここでカインは野菜、アベルは羊の初子を捧げた。神はアベルの供え物を取り、カインの供え物はかえりみなかったので、カインは憤りアベルを殺害してしまう。これが人類最初に起こった事件だと聖書は伝えている。このように農耕民と牧畜民の対立はカインとアベルの物語のテーマであり、主ヤーウェは農民カインの捧げた野菜ではなく、牧人アベルの捧げた動物の犠牲を喜ぶのである。

 ユダヤキリスト教において、蛇はサタン(悪魔)とよばれる霊的存在である。エバを誘惑して罪を犯させたからだ。ではどんな罪だったのだろうか。禁断の実とは「性」のことであり、取って食べるなとは、成長し完成するまで性関係を結んではならぬという戒めである。本来アダムとエバは成長期間を経て完成し、結婚して子孫(神の血統)をつくるという創造原理があった。にもかかわらず蛇はエバを誘惑して不倫な性関係を結び、血統的存在を残した。それがカインである。次にエバは本来の相手がアダムだと気づき、アダムを誘惑して性関係を結んだ。この血統がアベルである。人間よりはるかに劣る万物を神(親)とするカインもアベルも罪の血統であるが、蛇を神とするカインより牛を神とするアベルの方が、より創造原理に近いということになる。血統は遺伝するので、全人類は堕落人間となってしまったのであり、常にこの二つの血統が争う世界となってしまった。カインがアベルを殺害したことにより、世界を支配したのは性と豊穣の神、蛇神ということになったのである。蛇というのは霊的な存在であるが、本来神の使いであった天使長ルーシェルを指している。

 カインがアベルを殺害した後、神はアベルの代わりにセツを立てたが、相当の時を待たずしては神側の血統を立てることができなかった。セツの血統から洪水伝説と箱舟で有名なノアが立ち、洪水によって人類は滅び、ノアは第二の始祖となったのである。イスラエルの祖アブラハムはノアの息子セムの子孫であり、このセム系民族が牛信仰の担い手となった。偽りの主となった蛇神を倒し、再び神主権の世界を打ち立てるために、長い闘争歴史を通して摂理してきたというのが、聖書のテーマである。そしてアベル(神側)がカイン(サタン側)に勝利した時、神はメシア(救世主)を地上に送られる。ちなみにエバは二重に堕落しているので、大地母神として蛇神にも牛神にも対応する立場にたっていた。

 ところでユーラシア大陸の南で、牛が農耕や軍事に活躍して人々に崇拝される一方で、ユーラシア大陸の北にある草原地帯では、インド・ヨーロッパ語族が馬の家畜化に成功していた。牛の代わりに馬を使った軽戦車が登場し、これがその後、人類の歴史を大きく左右する動物になり、国家成立、勢力拡大に不可欠な軍事力になった。このような馬車と騎馬の普及とともに天は牛から馬へとかわり、騎馬民族を形成して、「天と地」という思想は全ユーラシア大陸へ伝播されることになったのである。

神道とは

日本の古代原始信仰は蛇信仰だったと、民族学の権威である折口信夫氏もふれているが、蛇信仰の研究で有名な吉野裕子氏は「天皇家のルーツは蛇である」とはっきり断言しておられる。つまり神社信仰のルーツは蛇信仰ということである。蛇は祖(おや)神(がみ)で外見が男根に似ていることから、生命や精力、エネルギーの源と見なされたこと、脱皮することから生命の再生、更新の象徴と見なされたこと、マムシのように猛毒を持って一撃のもとに相手を倒すことから、人間の力を越えた恐ろしい力を持つ存在として崇められてきたというのである。さらに驚くべきことは、しめ縄は蛇が交合する姿であり、鏡餅は蛇がとぐろを巻いている姿であるという。古代において蛇は「カカ」とか「ハハ」と呼ばれており、神という語の語源も「蛇(か)身(み)」という。日本には様々な外来の宗教もやってきたが、あらゆる宗教と習合しながら蛇信仰は常に基底をなし、日本文化の中や「祭り」として継承され現在に至っている。いわゆる「日本教」といわれるものの根本は蛇信仰である。

 キリスト教において、蛇はサタン(悪魔)と呼ばれ、神に敵対する存在である。世界の歴史は、蛇信仰を基底とする多神教と、キリスト教を代表とする一神教との対立の歴史であった。古代を席巻していた蛇信仰が滅ぼされ、現代はキリスト教が世界をリードしている。このような歴史的背景の中にありながら、日本における蛇信仰は島国という地の利からか、延々と温存され続けた。蛇信仰は単に古代信仰というだけでなく、しめ縄や鏡餅あるいは全国各地に残る「祭り」など、日本の文化であり伝統であって現代にも息づいているのである

サタン側エバ国家日本

 日本の歴史的背景として最も問題なのが、原理講論には「サタン側エバ国家」とされる、日中戦争から第二次世界大戦までの期間である。そこで、原理講論(p541〜p542)の「天の側とサタンの側との区別は何によって決定されるのか」の一部を引用してみよう。「天(神)の側とサタンの側の区別は、神の復帰摂理の方向を基準として決定される。神の復帰摂理の方向と同じ方向をとるか、あるいは間接的でもこの方向に同調する立場をとるときこれを天の側といい、これと反対になる立場をサタンの側という。・・・この例を宗教面において挙げてみよう。すべての宗教はその目的が等しく善であるので、それはみな天の側にある。しかし、ある宗教が使命的にみて、一層天に近い宗教のいく道を妨害するときには、その宗教はサタンの側に属するようになる。また各宗教は各々時代的な使命をもっているので、ある宗教がその使命を過ぎた後までも、次の時代の新しい使命を担当して現れた宗教の障害となる立場に立つとき、その宗教はサタン側となるのである。たとえばイエスがあらわれる前には、ユダヤ教やその民族はみな天の側であった。しかし彼らが、ユダヤ教の目的を達成するために、新しい使命をもってこられたイエスを迫害するようになったときには、彼らがいくら過去において神を信奉してきたとしても、イエスを迫害したその日からサタン側とならざるを得なかったのである。・・・キリスト教はすべての宗教の目的を達成するために最終的な使命をもって中心宗教に立てられているので、復帰摂理の立場から見れば、この摂理の目的を指向するキリスト教の行く道を妨害するものは、何でもサタン側になるのである。したがってキリスト教を迫害するとか、またはその発展を直接、あるいは間接的に妨害する国家は、みなサタン側になる。」

 それでは第二次大戦における日本はどうだったのだろうか。大戦当時の日本の軍部は、韓国の各教会に神道の神棚を強制的に設置させ、キリスト教信徒たちを強制的に引っ張りだして日本の神社に参拝させ、これに応じない信徒たちを投獄、殺傷した。これが引っ掛かったのである。さらに原理講論(p536)にはサタン側の理由として、代々天照大神を崇拝してきた国だということと、全体主義の国であったということも挙げられている。
全体主義とは、近代国家の民主主義政治思想の根本である人間の個性に対する尊重と、言論、出版、集会、結社の自由、そして国家に対する基本的な人権および議会制度などを否定し民族国家の[全体]だけを究極の実在として見ることにより、個人や団体は民族国家全体の存立と発展のためにのみ存在しなければならないと主張する政治理念である。・・・全体主義の指導原理は、すべての権威を多数におくのではなく、ただ一人の支配者の意志をもって国家民族の理念とするのである。この指導理念による全体主義政治体制の事例を挙げれば、イタリアにおけるムッソリーニ、ドイツにおけるヒットラー、日本における軍閥による独裁体制が各々それに該当する。」(原理講論p546)とある。

 1937年から始まった日中戦争から、1945年第二次世界大戦終結までの期間において、日本のサタンとされる軍部の状況はどうだったのだろうか。もともと日本には資源がないにもかかわらず、中国大陸で戦争を拡大しすぎて、兵站つまり戦争を遂行するための人的、物的戦闘力の維持および増強をする能力が足らなくなったため、現地調達の命令がでた。そのため日本軍部は現地で、略奪、放火さらに強姦・輪姦を繰り返し、多くの民衆を殺戮したのである。これらの行為が残忍な古代的な戦争形態であることから、世界中から日本軍国主義と恐れられた。特に強姦・輪姦をして女性を皆殺ししていったことは国際的に大問題となったのであるが、日本兵の間にも性病が蔓延し、戦闘意欲がなくなることを恐れて、従軍慰安婦制度が設けられたほどである。また最も軍国主義の強硬派とされる関東軍の暴走によって、戦線はどんどん拡大され、大本営と最前線の統制が失われていき、最終的に米英とぶつかることになって、第二次大戦へと突入していったのである。

 なぜ日本は中国大陸でそのような横暴を繰り返し行えたのであろうか。第一の理由として、日清・日露戦争において日本が勝利したことにより傲慢になってしまったことと、過去においては強大な中国が列強国に屈服してしまったという現実によって、中国を見下すという心理に立ったということが考えられる。第二の理由は、前年の1936年に起こった2・26事件で、有能な政治家が次々殺されたことにより、強行派の軍人たちが主流となって、狂信的な天皇崇拝に陥っていったということがあげられるのではないだろうか。つまり、明治維新から始まった「王政復古」「神武創業」という復古主義の流れから、明治政府が日本古来の神社信仰を「国家神道」として国教化したために、日本は一気に古代の霊界に支配され、特に強行派の軍人たちを中心に古代さながらの戦争をしたのではないかということである。

 当時日本の敵国であったアメリカは日本を攻略するために、日本人の精神生活および文化について様々な観点から冷静に分析していた。その中に文化人類学の見地から書かれたルース・ベネディクト著「菊と刀」がある。「戦争中の日本人」の中で、日本人の態度に関する問題の中で最も有名なものは「天皇陛下に対する態度」であったと書かれている。その内容を要約して紹介しよう。封建時代700年を通して権力は将軍にあり、天皇は影の存在、単に名目だけの元首であって、天皇に対する忠誠は問題にならなかった。一般民衆に至っては存在しないも同然だった。ごく近年に国家神道の心臓として祀りあげられた天皇の神聖性を掘り崩したなら、日本は大黒柱を抜かれた家のごとく瓦解するとアメリカ人学者は主張したのである。しかし実際はそれほど単純なものでなかったことは、その後証明されることになる。

 アメリカは様々な情報を日本兵捕虜によって収集した。最後まで頑強に抗戦した日本兵の捕虜たちは、その極端な軍国主義の源を天皇においていた。彼らは「聖志を奉行」していたのであり、「天皇の命のままに身命を捨て」つつあったのである。「天皇が国民を戦争にお導きになったのである。そしてそれに従うことが私の義務であった」というのが連中の言い分であった。・・・また戦いに疲れた人たちは、「平和を愛好し給う陛下」といい、「陛下は終始自由主義者であって、戦争に反対しておられた」「陛下は東条にだまされたのだ」「満州事変中に陛下は軍部に反対の意向を示された」と陳述したのである。天皇はすべての人にとって、すべてのものであった。そして日本の捕虜たちははっきりと、皇室に捧げられる崇敬と軍国主義ならびに侵略的政策とは切り離し得るものであると断言したのである。「万が一敗戦となったら責任は内閣と軍の指導者が取るのであって、天皇には戦争責任がない、たとえ敗戦になっても十人が十人まで天皇を崇拝し続けるだろう」。

 日本軍の指揮者たちは、この日本人のほとんど全部が支持する天皇崇拝を利用する目的で、部下将兵に「恩賜」の煙草を別け与えたり、天長節の日に部下を指揮して東方に向かい三度頭をさげ、「万歳」を唱えさせたりした。また部隊が昼夜を問わず間断なく爆撃を受けていた時も、天皇が自ら親しく「軍人に賜りたる勅諭」の中で軍隊に授けた「神聖なお言葉」を朝夕部下全員とともに朗読した。軍国主義者たちはあらゆる方法で、天皇への忠誠心に訴え、これを利用した。彼らは部下将校に「陛下のみ旨に副うように」「陛下の御慈悲に対するお前たちの尊敬の念を示すように」「天皇のために死ぬように」と呼びかけた。そのように徹底的に教育された多くの捕虜は、次のような証言をした。「日本人は天皇の命令とあれば、たとえ竹槍一本しか武器がなくても躊躇せず戦うだろう。がそれと同じように、それが天皇の命令であれば、速やかに戦いを止めるだろう」「天皇のお言葉のみが、日本国民をして敗戦を承認せしめ、再建のために生きることを納得せしめることができる」と。

 以上のことなどを踏まえてサタン側ということを考えると、確かに軍部にサタンが働いていたように思える。と同時にそれは天皇の存在と一体不可分であることもわかるのである。天照大神を祖神とし神道の祭祀王としての天皇、あるいは軍部の統帥権天皇がもっていたことや、2・26事件以降、狂信的な天皇崇拝へと陥っていったことなど、天皇という存在を抜きには考えられないことである。しかし戦後開かれた極東国際軍事裁判東京裁判)において、天皇は裁かれることはなかった。主に東条内閣閣僚(軍閥)を中心に裁かれることとなったのである。天皇の戦争責任についてはともかく、アメリカとしては速やかに日本の軍隊の武装解除をして戦争を終わらせるためには、天皇の存在が欠かせないと考えたのは当然なことであった。もし天皇終結宣言をしなければ、日本軍は竹槍をもって死ぬまで戦ったからである。それほどまでに天皇の存在は日本人の心をつかんでいた。

 天皇自身は裁かれなかったが、近代の天皇制というものが日本をサタン側に導いていった遠因ということも否定できない。明治維新において倒幕のためのスローガンは「尊王攘夷」であり、そのために担ぎあげられた天皇を、明治政府は国家の中心に定めた。古代天皇制に復古しながら、欧米の文化や制度を導入して近代天皇制を創造し、さらにキリスト教に対抗すべく神道を国教化し「国家神道」を創出した。日本はキリシタン禁令の歴史的背景をもっており、明治になっても弾圧を繰り返していたために、国際的な非難を浴びるようになった。そこで明治の政治家たちは宗教の分野において独特の制度を設けたのである。国家統一をするために、国家の象徴である宗教(神社信仰)を国家の直轄機関にし、国家の統制を受けるというものであった。しかもアメリカ人が信教の自由を掲げながら、星条旗に敬礼するのと同じ理屈で、国家神道は国民的象徴に敬意を表することを本旨としているのであるから「宗教ではない」と位置づけたのである。そして国家神道の下に、他のすべての宗教は個人の信仰と自由にまかせた。

 「宗教ではない」のだから、西欧流の「信教の自由」に抵触することも西欧の非難を蒙ることもなく、日本はそれを学校で教えることができた。学校で教えたことは、神代以来の日本の歴史と「万世一系の統治者」たる天皇の崇拝である。そしてメディアでは皇室行事を大々的に報道・宣伝し、徐々に国民の支持を得ていくことになる。また前述したように軍隊でも軍隊教育として取り入れられ、それはだんだんと過激なものになっていった。一部の熱狂的な天皇主義の青年将校によって引き起こされた2・26事件は、このような政策が実を結んだ結果と考えられる。もはやこの狂信的な天皇崇拝は国家権力でも抑えがきかなくなり、天皇が直接に統帥権をもつ軍部を中心にサタン側国家は展開されたのである。

 原理的な観点からいけば、キリスト教に対抗した時点で国家神道はサタン側ということになる。さらに天照大神を代々崇拝してきたこともサタン側の要因であることから、古代信仰である神道に問題があるのではないかという結論に達する。つまり明治に入って、日本の国家体制が完全に古代に戻ってしまったことが、サタン側になった原因ではないかと考えるのである。そこで天照大神とはいかなる神であり神道とはいかなる宗教か、そして明治政府によって創作された国家神道とはいかなるものかについて詳しく考察することにしよう。

 「訓読」と言われて、すぐに私が思い浮かべるのは景教寺院のことである。景教とは、中国の唐の時代に「景教」と称されたキリスト教ネストリウス派のことである。シリア人ネストリウス(386〜451)を代表とするこの宗派は、マリアを神の母と認めることに反対し、聖像崇拝や煉獄説などキリスト教の伝統的教義に反対したため、431年エフェソス公会議において異端とされた。ネストリウスとその支持者は追放されたが、その後ササン朝ペルシアに身をよせ、カルデアアッシリア教会の名義で布教した。6世紀になってネストリウス派の宣教師はシルクロードをたどって北魏の洛陽に至った。唐代には国家的に受け入れられ、景教(光輝く教え)と名付けられたのである。唐の朝廷は初期においては支配層に北方的要素が強かったため、景教や仏教を寛容に受け入れたが、末期には伝統的中華思想を位置づける意識が高まって以来、弾圧され消滅した。その後景教モンゴル帝国によって保護されたが、帝国の滅亡によって消滅したのである。景教は滅びてしまったが、アッシリア東方教会カルデア典礼カトリック教会に受けつがれ、現在も中東・アフリカで活動している。またネストリウスが破門された後、新しく立てた総主教は現在も北アッシリアに点在し、移民などによってアメリカやオーストラリアに存在している。

 アメリカに今も存在する景教寺院は、日本の仏教のお寺にいるような感じがするという。牧師も会衆も皆祭壇の前を向いて礼拝し、牧師は説教などはせず、「読経」のようなことを延々と行う。しかも独特の節回しで読経と錯覚するほどだそうである。これは聖書を訓読しているのだが、この訓読を1000年以上繰り返してきた。また香炉からは煙が立ち上り、人々はその煙を自分の体にかける。それが祝福をもたらすと信じられているからである。また信者は数珠(ロザリオ)を持っている。この数珠はもともと景教の風習が、仏教に取り入れられたのだそうである。このように景教と仏教はお互いに影響しあっていることがわかる。

 景教が日本に伝来したのは、公式には8世紀である。9世紀にはいって、最澄空海遣唐使として入唐し、唐から新しい仏教を学び仏典を持ち帰った。これで仏教はそれまでの奈良仏教から平安仏教へと推移し、国家鎮護の仏教として多大な影響をおよぼしたのである。前述したように、唐代の中国において仏教は景教の影響を強く受けており、最澄空海が持ち帰った仏教は、もはや原始仏教とは似ても似つかぬ教えで、景教と混合した仏教であった。空海が起こした真言宗では、法要の最初に胸の前で十字を切るとか、高野山奥の院御廟前の灯篭に十字がついているなど景教の影響がみられるという。鎌倉仏教においても、浄土真宗本願寺派の本山である西本願寺には、景教の聖書の一部(マタイによる福音書の「山上の垂訓」を中心とした部分)の漢訳である「世尊布施論」が所蔵されており、親鸞景教を学んだと言われている。このように景教が、日本の仏教の中に息づいているというのは間違いない。

 日本にキリスト教を布教したフランシスコ・ザビエルも、日本にやってきて、日本文化の中にキリスト教が根付いていることに驚き、すでにキリスト教徒が以前にやってきて、キリスト教を布教していると言ったそうである。日本に根付いた仏教が実はキリスト教と融合していると、最初に気づいたのはフランシスコ・ザビエルかもしれない。仏教も江戸時代から葬式仏教化し、私達現代人にとっては形式的なものでしかないが、日本は仏教が花開いた国ともいわれ、1000年以上の歴史を有している。仏教は日本人には非常に馴染みやすい宗教だといえる。仏教と融合したキリスト教である景教寺院は、私達が目指す訓読家庭教会のモデルではないかと思ったりもする。

 「訓読のすすめ」と題したこの小論は、再臨のメシヤとして来られた文鮮明先生が語られた珠玉の御言を日々ひたすらに訓読し、あるいは敬拝をして、日本に再臨のメシアを迎える訓読家庭基台を築こうという主旨で書いたものである。長年、文先生を日本にお迎えできないのには、それなりの理由がある。それは日本国家の歴史的・宗教的背景にあると考える。つまり私達は国家の霊的な壁を突破することができず、国境を越えた世界人として、メシアに出会っていないということである。そのために先ずしなければならないことは、霊的な壁が何なのかを知ることである。そしてサタン分立をしなければならない。そうして分立された家庭の基台が増えていけば、はじめて国家的にメシアを迎えることができるのである。特にこの小論では、民族・国家的なサタン分立ということに焦点をあてている。そしてこれは日夜み旨に励み日本の霊界を解放し、文先生を日本にお迎えしたいと願っている全ての兄弟姉妹に贈るメッセージである。