「訓読」と言われて、すぐに私が思い浮かべるのは景教寺院のことである。景教とは、中国の唐の時代に「景教」と称されたキリスト教ネストリウス派のことである。シリア人ネストリウス(386〜451)を代表とするこの宗派は、マリアを神の母と認めることに反対し、聖像崇拝や煉獄説などキリスト教の伝統的教義に反対したため、431年エフェソス公会議において異端とされた。ネストリウスとその支持者は追放されたが、その後ササン朝ペルシアに身をよせ、カルデアアッシリア教会の名義で布教した。6世紀になってネストリウス派の宣教師はシルクロードをたどって北魏の洛陽に至った。唐代には国家的に受け入れられ、景教(光輝く教え)と名付けられたのである。唐の朝廷は初期においては支配層に北方的要素が強かったため、景教や仏教を寛容に受け入れたが、末期には伝統的中華思想を位置づける意識が高まって以来、弾圧され消滅した。その後景教モンゴル帝国によって保護されたが、帝国の滅亡によって消滅したのである。景教は滅びてしまったが、アッシリア東方教会カルデア典礼カトリック教会に受けつがれ、現在も中東・アフリカで活動している。またネストリウスが破門された後、新しく立てた総主教は現在も北アッシリアに点在し、移民などによってアメリカやオーストラリアに存在している。

 アメリカに今も存在する景教寺院は、日本の仏教のお寺にいるような感じがするという。牧師も会衆も皆祭壇の前を向いて礼拝し、牧師は説教などはせず、「読経」のようなことを延々と行う。しかも独特の節回しで読経と錯覚するほどだそうである。これは聖書を訓読しているのだが、この訓読を1000年以上繰り返してきた。また香炉からは煙が立ち上り、人々はその煙を自分の体にかける。それが祝福をもたらすと信じられているからである。また信者は数珠(ロザリオ)を持っている。この数珠はもともと景教の風習が、仏教に取り入れられたのだそうである。このように景教と仏教はお互いに影響しあっていることがわかる。

 景教が日本に伝来したのは、公式には8世紀である。9世紀にはいって、最澄空海遣唐使として入唐し、唐から新しい仏教を学び仏典を持ち帰った。これで仏教はそれまでの奈良仏教から平安仏教へと推移し、国家鎮護の仏教として多大な影響をおよぼしたのである。前述したように、唐代の中国において仏教は景教の影響を強く受けており、最澄空海が持ち帰った仏教は、もはや原始仏教とは似ても似つかぬ教えで、景教と混合した仏教であった。空海が起こした真言宗では、法要の最初に胸の前で十字を切るとか、高野山奥の院御廟前の灯篭に十字がついているなど景教の影響がみられるという。鎌倉仏教においても、浄土真宗本願寺派の本山である西本願寺には、景教の聖書の一部(マタイによる福音書の「山上の垂訓」を中心とした部分)の漢訳である「世尊布施論」が所蔵されており、親鸞景教を学んだと言われている。このように景教が、日本の仏教の中に息づいているというのは間違いない。

 日本にキリスト教を布教したフランシスコ・ザビエルも、日本にやってきて、日本文化の中にキリスト教が根付いていることに驚き、すでにキリスト教徒が以前にやってきて、キリスト教を布教していると言ったそうである。日本に根付いた仏教が実はキリスト教と融合していると、最初に気づいたのはフランシスコ・ザビエルかもしれない。仏教も江戸時代から葬式仏教化し、私達現代人にとっては形式的なものでしかないが、日本は仏教が花開いた国ともいわれ、1000年以上の歴史を有している。仏教は日本人には非常に馴染みやすい宗教だといえる。仏教と融合したキリスト教である景教寺院は、私達が目指す訓読家庭教会のモデルではないかと思ったりもする。

 「訓読のすすめ」と題したこの小論は、再臨のメシヤとして来られた文鮮明先生が語られた珠玉の御言を日々ひたすらに訓読し、あるいは敬拝をして、日本に再臨のメシアを迎える訓読家庭基台を築こうという主旨で書いたものである。長年、文先生を日本にお迎えできないのには、それなりの理由がある。それは日本国家の歴史的・宗教的背景にあると考える。つまり私達は国家の霊的な壁を突破することができず、国境を越えた世界人として、メシアに出会っていないということである。そのために先ずしなければならないことは、霊的な壁が何なのかを知ることである。そしてサタン分立をしなければならない。そうして分立された家庭の基台が増えていけば、はじめて国家的にメシアを迎えることができるのである。特にこの小論では、民族・国家的なサタン分立ということに焦点をあてている。そしてこれは日夜み旨に励み日本の霊界を解放し、文先生を日本にお迎えしたいと願っている全ての兄弟姉妹に贈るメッセージである。