日本の古代原始宗教

 日本の縄文時代は約一万二千年前から始まり、約一万年続いた。中期から増大した縄文土器には蛇の造形が数多く見られ、単なる装飾というよりは呪術的な印象が強くあらわれている。また頭にマムシを巻きつけた女性の土偶や、男根を象った呪術シンボルとみられる石棒も、縄文中期からその数が増大している。近年の考古学によって、縄文中期に稲や稗を栽培していた痕跡がみつかったことから、縄文中期にはすでに農耕が存在した可能性が高く、新石器時代の日本の縄文時代にも、農耕文化によって世界的に伝播した主要な豊穣の呪術的シンボルである蛇・渦巻文・女性像・男根像がすべて見出される。このように日本は蛇信仰のメッカであった。

 紀元前6〜5世紀ごろから、倭人と称された弥生人が日本に渡来してきた。実は日本人は二重の構造になっていることがわかっている。すなわち身長がやや低く、鼻梁が高く、丸顔二重まぶたの人達が、南九州と東北以北に分布している。その中間には身長がやや高く、顔の長い一重まぶたで特徴づけられる人々が多いことがわかってきた。また言語においても、南九州と東北以北には方言に共通性があり、その中間には違った特徴がある。この前者が縄文人、後者が弥生人倭人)である。

 倭族は新石器時代の始めごろ、雲南省の滇地(てんち)またはその周辺に点在する湖畔で、水稲の人工栽培に成功し、水稲農耕という生産様式から高床式建物を考案した。彼らはこの稲作と高床式建物を携えて、雲南から各河川を通じて東アジア・東南アジアへと移動し広く分布していった。韓半島経由で日本に渡来した倭族のルーツは、中国の長江の中・下流域に住んでいた「越」の人々であるといわれている。紀元前1世紀にこれらの国が滅亡したことにより、本格的に朝鮮南部や日本へ移動してきたのである。また彼らは海洋民族でもあり、体に「文身」といわれる竜(蛇)の刺青をしていたのが特徴であった。海人族といわれる「わだつみ神」や「住吉神」は早い時代に渡来してきた民族で、海蛇を神として信仰していた。そして朝鮮南部と北九州を中心に倭国と呼ばれる国々を築いたのである。それに対して、南九州は南島系(インドネシア・フィリピン等)の海人族で同様に海蛇を信仰していた。ルーツ的には、朝鮮経由できた中国大陸の倭族と、南島から台湾・沖縄・薩南諸島を経て、南九州に渡来した二系統の倭族がいるが、倭族に属する全ての民族あるいは部族にみられるのは、縄文時代同様、農耕神を蛇と見る思想(蛇信仰)である。さらに倭族には首狩りの風習もあったようである。

 これらの国々は、記紀神話における神武東征の物語のように、九州から畿内に移動していった。最も早く畿内に進出したのは、ニギハヤヒを祖とする物部氏である。物部氏は、青銅器の文明で急速に縄文社会を征服していき、邪馬台国を築いた。また物部氏が携えていったと思われる遠賀川式土器の分布状況から、邪馬台国は九州・瀬戸内海沿岸・畿内・中部・神奈川と広範囲に及んでいたようである。

 物部氏は日本における強力な蛇信仰の担い手であったと推測される。それは物部氏に関わる人の名、地名、そのレガリアに、蛇および南方出自の跡が色濃くうかがわれるからである。物部氏の祖はニギハヤヒであるが、その子の天語山(あめのかごやま)命(のみこと)は別名、高倉下(たかくらじ)という。この高倉とは高床式の倉であって、倉の所有者がその倉の名で呼ばれるほど、倉は富の象徴であった。倉は生命を守り、富の源泉としての米をはじめ穀類の収納所で、住居に対して守護的な役を担っていたのである。さらに高倉は鼠害から穀類を守る設備だから、そこには鼠の天敵としての蛇、あるいは蛇を象徴する蛇行剣が祀られていた。蛇が祀られている倉は、その意味でも住居の守護神的存在となるが、これらの理由から、穀倉が神社の起源になっていく可能性は非常に高く、伊勢神宮の御饌殿(みけでん)(外宮)はそのよい例である。

 日本の古代における統治のあり方は、祭事権をもつ姉(または妹)のもとに、政事権・軍事権を持つ弟(または兄)がいる祭政二重主権の形態であった。そして祭事権を持つ姉または妹が部族の長であり、国の王とされていた。つまり女王国である。男王が立った場合は、祭事権を兄が持ち、弟が政治・軍事権をもっていた。祭事権をもつ姉もしくは兄は生涯独身をとうして、弟が血統を残した。いわゆる女王国であるが、女王は巫女(シャーマン)であった。原始の祭りは神蛇とこれを祀る女性蛇巫(じょせいへびふ)を中心に展開する。さて祭りは「女性蛇巫が神蛇と交わること」「神蛇を産むこと」、「現実に蛇を捕まえてきて飼育し、祀ること」を意味している。時代が降ると、巫女は神蛇と交わる擬(もど)きをし、巫女自身が神の種を宿し妊し、最終段階で自ら神蛇、現人神として人々の前に顕現し、村人と交歓するようになる。祭りは巫女の「擬き」に終始することになり、この形は現在も沖縄および薩南諸島に残る祭祀の形態である。また朝鮮半島においては、済州島に蛇信仰やシャーマニズムが残っている。

 最高女性蛇巫としては,魏志倭人伝に登場する「卑弥呼」があげられるだろう。魏志倭人伝には卑弥呼は鬼道を司っていたと書かれているが、鬼道は中国の民族宗教である道教の先駆け的存在で、古くは鬼道、神道、真道などと呼ばれていた。卑弥呼がおこなっていた鬼道はおそらく巫鬼道というもので、漢代に流行した原始宗教で民間信仰である。当時の巫は若くて美しい女性が、きれいな着物を着て歌い踊って神を降ろし呪術をおこなっていた。道教における先祖神は伏儀(ふっき)と女媧(じょか)という兄妹神であるが、この神は人面蛇身で腰から下が蛇であり、絡みついているので夫婦神でもある。鬼道は道教の元となった宗教なので、神は蛇神であったことは間違いない。

 卑弥呼が率いる邪馬台国女王連合(物部朝)は、対立していた句奴国(葛城朝)によって滅亡し、その後、崇神王朝が登場してヤマトを統一した。鹿児島には朝鮮半島南部にあった伽耶国の金首露王の息子たちがやってきたという伝承があり、またその子孫が天皇家の祖ニニギの先祖であり神武東征に至ったという。第10代崇神天皇は、史家によっては初神天皇に重ね合わせられる天皇であるが、金首露王の血統つまり伽耶系の王朝が崇神王朝であったと考えられる。金首露王の妻はインドのアユタ国から嫁にきたという。アユタ国は太陽信仰のメッカでもあり、インドは世界でも有数の蛇信仰(ナーガ)の地でもあった。古代において太陽と蛇とは同一のものと理解され、太陽の使いということで鳥の信仰も盛んであった。

 崇神天皇から仲哀天皇までが伽耶系であり、蛇信仰に加えて太陽信仰や鳥信仰が導入されている。祭事権は姉(女性)から兄(男性)へと移行していった。「随書」に倭の風俗を訪ねられて「天をもって兄となし、日をもって弟となす」と答えたという箇所がある。兄である天としての王は宇宙の主宰者として君臨し、それに対し弟なる日としての王は、宇宙の中の一つである太陽として治める者であるという意味である。日本古代の神祭りは幽祭といって、子の刻(午前零時)から寅の刻(午前4時)にかけて行われた。日の出前に神祭りをし、兄なる王は弟なる王から政事を聞き、それを祭事として神に奉告し、国の安泰と繁栄を祈願したのである。つまり太陽神は表向きであり、本当の神は蛇神である。それと同時に古墳時代に入り、宗教改革によって銅鐸から銅鏡が新しい王権のシンボルになった。さらに崇神王朝という強力な王権は、灌漑技術と鉄器を用いた農業技術の向上による稲作生産の増大と、鉄製の武器による軍事力の強化が特徴であった。鉄は生産技術だけではなく、軍事技術にとっても革命的だったのである。

 4〜5世紀は、朝鮮半島情勢の混乱によって多くの渡来人が日本に押し寄せた。神功皇后・応仁天皇から血統が百済系に変わったといわれている。この応仁王朝はいわゆる征服王朝であって、一般民衆の倭人とは血統が違う。また応神朝から「馬」が日本に持ち込まれたらしく、前述した大陸の騎馬系の流れを汲み、「天と地」の思想が導入されたと思われる。しかし、応仁天皇の母とされる神功皇后は、海人族との関係も深く、蛇信仰の流れを踏襲している。その証拠に神功皇后が祭神の一人とされる「住吉大社」は、住吉三神として海神を祀っているが、この住吉神は蛇神である。

 5世紀には、南朝東晋や宋の時代に、倭の五王(讃・珍・済・興・武)が朝鮮半島における倭国の軍事行動権や経済的利益の国際的承認を得るために、盛んに朝貢をしたと「宋書 倭国伝」に記されている。これらの王たちは応仁天皇の血統であり、半島との関係が極めて深い。この流れは7世紀の天武・持統朝まで続き、その途上においては百済滅亡という国際情勢などもあって、さらに大量の百済人が渡来して王朝を形成したのである。しかし宗教や政治形態においては、推古天皇が巫女的立場で聖徳太子が政治を担当する、あるいは持統天皇天武天皇の関係も巫女と王という立場であったなど、一時はその王権が男性に移ったが、この時期には再び女性と男性の祭政二重主権にもどっており、日本の古代統治の形態がこの時代まで継承されている。

 天武朝においては「日本」という国号が使われ始め、国家の体裁をととのえるために「古事記」「日本書記」の編纂がはじまった。さらに持統朝において万世一系とされる古代天皇制が確立され、天皇家の宗廟としての伊勢神宮が成立したのである。持統天皇天武天皇の死後、単なる巫女的立場のみならず政治も担当したことによって、完全な女王になった人である。この人が日本の天皇制を絶対的なものにしたことから、天照大神持統天皇という説もある。またその影の立役者といわれる藤原不比等も、天皇家外戚としての位置を固めた。藤原氏はもともとは物部氏の中からでた血統であり、やはり蛇信仰の流れを汲む氏族である。仏教を推進した蘇我氏に対して反対の立場をとったのが物部氏と中臣氏であるが、権力上の対立もあるが宗教上の対立もあったと考えられる。最終的に後の天智天皇藤原鎌足によって、蘇我氏は滅ぼされた。そして藤原氏は第二次大戦が終結するまで、天皇家外戚としてありつづけたのである。天皇家が血統的に蛇信仰に支配されていたというのは、藤原氏の存在にも原因があるといえる。

 このように日本の古代信仰は蛇信仰であったことがわかる。吉野裕子氏によれば、「古代の日本人の死生観は、人間は本来蛇であって、その生誕は蛇から人への変身であり、死は人から蛇への変身である。つまり祖霊蛇の領する他界から来て、他界に帰するということである。よって天皇家の祖霊が蛇であることは当然であり、古代において世界各国の神話でも見られるように、太陽と蛇は密接に関連するので、太陽神が蛇神であることはきわめて自然に納得される。天照大神は、この祖霊としての伊勢大神を祀り、この蛇神と交わるべき最高の女性蛇巫であった。しかし時代がたつと、皇室の祖が蛇であってはならなくなり、最高女性蛇巫はその対象であった伊勢大神に自己を昇格させて、天照大神になった。」これが天照大神が女性神となった理由という。次は天照大神の成立の経緯と伊勢神宮について調べてみよう。